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談話室  第17話 富士浅間大社
2003/05/25

 静岡県富士宮市の、富士山本宮浅間大社(せんげんたいしゃ)は、全国 1,300余社にのぼる 浅間神社(せんげんじんじゃ)の総本山で、厄除け、家内安全、身体健全のほか、交通安全、海上安全、操業安全や、大漁満足、商売繁盛、事業繁栄に霊験がある。ほかに登山安全、火難消除、安産、子宝にも。
 富士山本宮浅間大社は当地の人々がたび重なる富士山の噴火に難渋してしたため、人皇第11代垂仁天皇が浅間大神(あさまのおおかみ)を富士山麓に祀られたことに始まる。理科年表で火山噴火の記録を見ると、平安時代のある時期、もっとも活動的な噴火を繰り返していたのが富士山だったことがわかる。したがって、厄除け、家内安全、火難消除の霊験は設置当初に最も求められたものだろう。またこの地は東国と京を結ぶ街道でもあったろうから、交通安全の霊験も当初からのものであるのではないか。
 この地から海に向かったところが田子の浦である。漁民は海上から富士山がどのように見えるところで魚がよく取れるかを経験的に知っていて、それぞれの漁家の秘密の家伝として伝えてきたと思う。その意味で、漁民にとっては富士山は大切なものであったはずだ。そこから大漁満足、ひいては商売繁盛、事業繁栄、また操業安全といった霊験が加わっていったのだろう。


 富士山本宮浅間大社は南北約900m、東西約400mの神域があり、その北半分が禁足の社叢、南半分が民草が参拝のための領域と考えてよい。そのほぼ中央に本殿がある。さすが、富士信仰のお宮である。その本殿は抜きん出て高く聳えている。
 
 本殿の東には、湧玉池というのがあって、富士の雪解け水が溶岩層の間を通ってきて湧き出すところである。ここから流れ出る川が神田川である。神域に接する水辺は市民の親水公園になっている。
 大鳥居のすぐ前で神田川に架かる橋が神田橋であるが、これは平成元年に架けられたもの。その数十メートル下流側に神田宮橋(かんだみやばし)がある。調べたわけではないがこれが古くからの神田川を渡る橋だったのではないか。現在の神田宮橋は昭和六年のコンクリート橋だが、赤がねの擬宝珠が輝いている。
 神田宮橋の東に小祠・神田宮(かんだみや)がある。神領の田地を潤すのが神田川で、その神田の豊作を祈るのが神田宮であったのかもしれない。
 


 話がさかのぼるが、02年12月28日に山梨県富士吉田市の、北口本宮富士浅間神社(きたぐちほんぐう・ふじせんげんじんじゃ)=正式には「北口本宮冨士浅間神社」。富と冨の字の違い=に参詣した。
 鬱蒼とした杉木立に囲まれた参道を進むと、控え柱を持つ巨大な鳥居が立つ。これは木製の鳥居としては最大のものとのこと。そしてその奥に、壮麗な社殿が鎮まっていた。  この時期、参道や社殿の屋根には解け残った雪があり、清冽な雰囲気に包まれていた。社殿前には樹齢一千年といわれる「冨士太郎杉」がそびえている。根まわり20mを越すという大木である。
 富士浅間の本宮は静岡県富士宮市のほか、山梨県にもある。ただし山梨(甲斐)本宮はもとは山梨市駅近くの甲斐一宮・浅間神社(あさまじんじゃ)だった。第11代垂仁天皇が勅令して木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祀ったのがはじまりで、第12代景行天皇の代の日本武尊(やまとたけるのみこと)のご巡幸を起源として発祥。そして延暦7(887)年に現在地に社殿を構えたとされる。富士山の大噴火を恐れる人々の心を静めるためにつくられたという創設の動機は富士宮の本宮と同じである。
 神域の大きさでは静岡・富士宮の本宮には及ばないが、参詣した時期が雪が降り積もった極寒の時期だっただけに、清冽さの面ではこれ以上ない、という雰囲気がたっぷりだった。
 この時期の富士山麓行は、雪で真っ白になった富士山を間近に見たい、という動機だった。しかし結論からいうと、あまりよくなかった。まず、この時期では真っ白な富士山には早すぎた。2月頃がベストシーズンと考えられる。次に、冬至を過ぎたばかりで太陽高度が大変低い。そのために山梨側では富士山の陰の部分が多く、いうならば彫りが深すぎて写真写りが悪い。そのうえほとんど逆光になる。特異な富士山の写真を撮る意図なら別だが、お見合い写真のようにきれいな富士山・・・お白粉で装った白面の富士山・・・の写真を撮るには2月〜3月頃でないといけないと思った。写りは悪いが、とりあえず富士山の写真を掲載しておきます。

左・上  河口湖付近から
右2枚  山中湖付近から →
 


 静岡県・富士宮の本宮も、山梨県・富士吉田の本宮も、『 浅間 』と書いて『 せんげん 』と読ませる。そればかりでなく、全国1,300余の『 浅間神社 』も『 せんげんじんじゃ 』であって、また『 せんげんさま 』と言い慣わさせている。これらを『 あさまじんじゃ・あさまさま 』と読もうものなら馬鹿にされるかしかられると言うことになる。
 しかし静岡も山梨も、本宮はもと『 あさま・さま 』だった。静岡県神社庁のホームページでは、正式名称を『 富士山本宮せんげん大社 』とするが、御祭神を『 浅間大神(あさまのおおかみ) 』木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)とする。また神域にわき出る泉が作る『 湧玉池 』には、平安期の歌人・平 兼盛の『 つかふべき かずにをとらむ 浅間なる 御手洗(みたらし)川の そこにわく玉 』という歌が紹介されている。この『 浅間 』は『 あさま 』でなくてはならない。
 山梨の北口本宮ではもっとはっきりしていて、神社が掲出する由緒書に『 元はあさまと言った 』とある。

 広辞苑にも「せんげんじんじゃ(正しくは『 浅間 』はアサマと読む)」とある。もともと、『 あさま 』とは神聖な山を指して言ったものと言われている。私は更に、火を噴く恐ろしい山を『 あさま 』と言ったのではないかと思う。そういえば熊本県の阿蘇山は現在のわが国で最大の火山だ。その『 あそ 』の発音との関連性もなにやらありげにみえる。鹿児島県の桜島はひどい時期には1年で400回噴火したとも聞く。この山はわが国史上で最大の火山・『 姶良火山(姶良カルデラ) 』の縁辺にできた火山だ。この『 姶良 』は『 あいら 』と読む・・・。ここまで関係があるかどうかは別として、『 あさま・あそ 』というのは火を噴く恐ろしい山、まただからこそ神聖な山、という意味があったのではないかと想像する。

 西暦1,000年を過ぎて次第に富士山の活動は静かになっていった。ちょうどそのころ、その近辺で活動性を高めていったのが群馬・長野県境の『 浅間山 』だった。富士山の活動が静かになってきたとき、にわかに火を噴き始めたこの山に、人々は『 あさま 』の名を与えたのではないだろうか。

 しかしこの浅間山に、浅間神社はできなかった(あるかもしれないが・・・富士の浅間神社ほど有名ではない)。なぜなら、富士山が神道の山になったのに対して、この浅間山は修験道の山になったからだ、と推測する。修験道は平安期の流行である。

 富士山には、『 ふじ 』の山の名と『 あさま 』の山の名があったと思う。『 あさま 』についてはすでに見てきたとおりだが、では『 ふじ 』の語源は?

 最も有力なのはアイヌ語起源の、やはり『 火の山 』を意味するという説だろう。ごく自然な発想と考えられる。
 ほかに二つと無い、『 不二 』から来た、とする説があるが、これは違うと思う。『 不二 』は中国語起源だから、富士山と名付けたのは中国人もしくは中国語を解する「文化人」となってしまう。このような「文化人」が富士山を発見するより先に、「 ふじ 」の山は存在したと思う。もっとも、「 相模 」を「 さがみ 」と読むのは大変古い中国の発音を映している、とも言うので、全く可能性がゼロではないかもしれない。
 説はまだある。南方語起源で、『 海から抜きあげた山 』と言う説。もしくは『 海の近くからいきなり聳える山 』。しかしそれならば伊豆大島の三原山の方がふさわしいし、鳥海山にも『 ふじ 』の名が与えられてもよい。そのほか、わが国には海の近くからいきなり聳える山は、それこそ山ほどあるのだから、全国に富士山がなければならない。たしかに蝦夷富士とか津軽富士とか、いろいろ地域名を冠した富士はたくさんあるが、これは意味が違う。
 最後にもう一つ、天孫降臨の『 くしふるのたけ 』の『 くし 』が『 ふじ 』になったという説。これは古事記・日本書紀起源説でもあるが、一方では古代朝鮮語起源とする説でもある。神話ファンはこの説に肩を持ちたくなるかもしれないが、しかし古事記や日本書紀の神話が作られるよりも古くから、または朝鮮系の人がこの地に入るより古くから、この地にはアイヌ系の人が住んでいて、自分たちの言葉でこの山を『 ふじ 』の山と呼んでいたのではないだろうか。

 『 ふじ 』と『 あさま 』の呼称についていろいろ書いたが、『 ふじ 』の呼称にはアイヌ系=北方系=の、『 あさま 』の呼称には南方系の雰囲気があるような気がする。

 関東地方に住んでいると冬晴れの日などには富士山が見えることが多い。車窓から夕映えの富士を見ることもある。そうすると、どうしても富士山ファンになってしまう。「このはなさくやひめ」がどのようなお人柄だったかは知らないが、その語感はたいへんさわやかなものだ。「木花之佐久夜毘売」、「木花開耶姫」、「木花咲夜姫」、「木花咲爺姫」、「此花咲耶姫」といろんな文字で書かれるが、「この字が好き」と議論する人もいる。そこまでいかなくても、富士山ファンは至る所にいる。

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FURUICHI, Makoto