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談話室  第28話 奈良・京都観光
2009/09/11〜

 20年ぶりくらいだろうか、ほんとうにほんとうに久しぶりに、奈良を訪れた。
 ほんとうに久しぶりの奈良訪問で、『 奈良って、こんなだったか? 』 と改めて感じたのは、奈良の町は坂が多いこと。近鉄奈良駅から興福寺に向かって、まず坂道を上らねばならないし、興福寺とその塔を水面に映す猿沢の池周辺も、高低差が大きい。
 旅行を終えてから地図を調べてみると、平城京の中心部は広い奈良盆地の北端近くで、標高60m程度の平地に築かれたこと(平城宮跡で71m、九条で56m程度)、そして現在の奈良の町は平城京の外京で、本来の『 都 』 を東に外れた、標高70m〜150m程度の山裾を中心に建設されたことがわかる。


 JR奈良駅から近鉄奈良駅にかけては緩い坂だが、そこから興福寺までにはやや急な斜面がある。興福寺の境内は平らな台地状の面になっているが、境内を外れて南の猿沢の池に向かっては下り坂、東の春日大社・東大寺に向かっては上り斜面になっている。
 まずは興福寺の五重塔を映す猿沢の池をご覧いただいて、・・・この写真でも興福寺境内と猿沢の池の畔で高低差があることがわかる。

 観光はこのあと興福寺、東大寺大仏殿、春日神社と見て廻り、飛火野から浅茅ヶ原と廻って、浮見堂に至った。

 右の写真は浮見堂。
 上の地図で、東大寺から南に伸びる道路の西側、小さな島が書き込んである池で、標高90m台のところ。
 北の浅茅ヶ原や東の飛火野・春日大社に向かっては、急な上り坂になっている。


飛火野、浅茅ヶ原

 今回の奈良探訪は、『 飛火野、浅茅ヶ原 』 の地名に引かれて、という面が強い。なんとなく 『 ゆかしい 』 地名ではないか。その、 『 ゆかしい 』 地名を訪ねてみたいと思ったのが今回の奈良紀行の最大の動機。これらの地名は、学生時代に奈良に遠くないところに住んだころは知らなくて、奈良から遠く離れた関東に住むようになって知ったもの。

飛火野 古歌では 「 とぶひの 」 と訓じるが、現在の地名は 「 とびひの 」 らしい。「 とぶひの 」 の方がゆかしいと思うが、現在の地名は地名で、しかたがない。
 天智天皇の白村江の敗戦で九州から畿内・明日香にかけて整備された狼煙台・烽(とぶひ)のひとつ、などと説明されることが多いが、実際にはこの野に狼煙台は置かれなかったらしい。明治になるまでは鬱蒼とした森だったようで、一つ西の狼煙台・生駒の高見の狼煙台が見えないからだ。この野は狼煙台にふさわしい高みを持っていない。
 古都・奈良の飛火野というと、万葉の昔から草原だったようなイメージを持つが、実はそうではなく、この地が芝地の原になったのは明治以後のことだ。この稿の最初に 「 古歌 」 と書いたが、これ・・・春日の烽・・・は万葉集には出てこず、古今和歌集になってようやく出現することになる。都が平安京に移り、狼煙台・烽(とぶひ)も廃止されて相当の年月を経ってからのことだ。このころには・・・春日の飛火野にかつては狼煙台があったのだろう・・・との想像のイメージが生まれていたようだ。

 右上の写真、画面中央の大楠は、明治41年の奈良県下での陸軍演習の際、明治天皇が休憩して座したところに植えられた楠。3本の楠がひとかたまりになって見える。
 この大楠のほか、主要な樹木には柵が巡らされている。鹿による樹木の食害を避けるためだ。飛火野の芝は短い。たくさんの鹿たちが、短い芝を更に喰って詰めていく。飛火野の芝地では、芝刈り作業は不要だろう。広野にたくさんの鹿が遊ぶのを見ていると、時間がゆったりと流れるように思う。

飛火野と狼煙台の考察は、奈良歴史漫歩 No.063 春日烽と飛火野伝説 橋川紀夫 を参考にしました。

浅茅ヶ原 こちらは用字に異説があって、「 浅茅が原 」 とも。しかし奈良市役所や奈良公園管理事務所のHPでは 「 浅茅ヶ原 」 と書くので、現在ではこちらが正解なのだろう。
 茅が疎らに生えた野原、ということで、どこにでもある、人気のない、寂しい野原、というイメージがある。東京・浅草に浅茅ヶ原と呼ばれた地名があるのも、安達が原とよく似た鬼女伝説を持つことで著名。
 連想するのは、雨月物語の浅茅が宿。この所在地は千葉県市川の真間と記されているが、浅茅が宿とはみすぼらしい家のこと。

 現在の浅茅ヶ原は、疎らに、さして大きくない樹木が生えた野原。地形の起伏もかなりある。奈良時代の昔も、やはり樹木があったのではなかろうか。当時のこの辺りの住人は興福寺の僧か春日大社の神官のみで、それぞれの通行は三条大路を通ったと思うから、この地は人の立ち入ることが希なはずで(今でも人気は少ない)、それで茅の原ではなくて疎林の野であっても、興福寺の僧などは 『 浅茅ヶ原 』 と呼んだのではないだろうか。

 この原の一角に丸窓の 『 円窓亭 』 (まるまどてい)がある。鎌倉時代の春日大社の経庫を明治27年に現在の場所に移築・改造したとのこと。・・・その建物の写真は撮らずに、脇にあった 『 内務省の看板 』 を撮影してきました。曰わく、名勝 奈良公園 注意 奈良公園は日本で名高い名勝で外国にも誇れるものであります お互いに大切にいたしませう 神鹿にいたづらすると危険です 塵芥を捨てたり花樹を折り採ったり芝生の上を歩いて踏み荒してはいけませぬ 其他指定地域の現状を変更したりすれば國法によって罰せられます 大正13年3月 内務省


京都

 京都観光は、河原町松原に宿を取ったことから、まずは松原橋を渡り、六道の辻を通って、六波羅蜜寺、六道珍皇寺と巡って異界の雰囲気を味わい、夕食は学生時代にはできなったこと・鴨川の「川床」での京料理を楽しむ・・・はずだったが、想定外の大雨で、鴨川を見下ろす2階座敷での食事となった。残念ながらの雨だったが、しかし寒さに震えることもなく、鴨川を眺めながら、おいしい京料理と酒を楽しむことができ、大変満足できた。

 翌日は銀閣寺へ行き、銀閣そのものは工事中だったが、各堂の柿(こけら)葺きの屋根から湯気が立ち上るのを不思議な思いで見た。前夜の雨のせいだ(写真 下左)。
 ここからは銀閣寺橋まで戻って、哲学の道を歩く。途中の見所は、法然院と永観堂だ。法然院は生きているお寺で、法事が勤まるときは本堂の拝観ができなくなる。この日もきわどいところで、本堂の拝観を済ませて出てきたら、「法事のため拝観停止」の札が出ていた。
 永観堂は大きなお寺。見所もたくさんある。ある時期には全国の末寺から僧を集めて修練させるとのことで、本堂など拝観できない時期があるかも知れない。「もみじの永観堂」といわれるくらいの紅葉の名所。
 法然院と永観堂のあいだに安楽寺、霊鑑寺があるが、拝観できなかった。

 永観堂の手前、疎水がトンネルに消えるところに熊野若王子神社がある。これに接して、大津の菓匠・叶匠壽庵が京都茶室を出している。ここで軽食に茶・菓子のセットを食べた。写真下中はその軽食で、中央は汁椀。写真下右は軽食後の菓子(この日は蕨餅)とお茶。南禅寺前の豆腐料理も良かろうが、こういうのも良い。お茶は、大服でやや薄め、という感じで飲み易い。食後の「お茶」には向いていると思う。
前夜の雨で屋根から湯気が立ち上る         叶匠壽庵の弁当                        蕨餅と抹茶                    

 永観堂の次は南禅寺、恐る恐る三門に登ってみる。

 このあと、タクシーで、京都随一の雑踏の清水寺へ。唐突の感を受けるかも知れないが、奈良の南円堂で始めた「西国三十三観音」の朱印集めで、六波羅蜜寺、清水寺と、この旅行で3ヶ寺の「西国」の朱印を集めた。


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FURUICHI, Makoto