そこで蘇東坡は、「西湖を西施にたとえれば、薄化粧も厚化粧も、すべてよし」と、詩を作ってうそぶいた。これは揶揄に対するジョークとしての反撃であり、「オチ」でもあろう。「みんなはそう揶揄するけれど、美しいものには美しさを保つために金をかけたくなるのも当然でしょ? 」と。
・・・実はネット上では「蘇東坡が西湖を西施にたとえた」のが、その「たとえ」の始まり、かのような情報しか出てこない。蘇東坡の詩は証拠として存在するが、それ以前に他の誰かが言い出した証拠が無くて、そのような言い方しかできないのかも知れない。しかし、私の推理では、これは間違っている。
詩を読めばわかってくる。その詩が証拠だ、と言いたい。
『その美しさで、西湖は西施にたとえられる』のは不自然だ。タダの美人ではない。国を傾ける美人である。ひとたび眺めただけで中毒を生じさせる、とんでもない美人である。
『その美しさのために、莫大な金がかかるという点で・・・そのせいで税が重いので・・・、西湖は西施に、地方長官は愚かな呉王にたとえられる』のなら納得できる。
蘇東坡の漢詩(七言絶句)
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湖上に飲んだ、初めは晴れたがのちに雨
水面(みなも)煌めくさざ波に、晴れてこそのすばらしさ、
山の色がおぼろに煙る、雨の風情もまた奇なり。
西湖を西施に比べんとすれば、(晴れ晴れとした)薄化粧、
(しっとり濡れた)厚化粧、どちらも総て あい宜し。
・・・『調子』主体で語を補って読み下し・・・
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自分で読み下してみて、やっぱり蘇東坡が初めて西湖を西施に例えたなんて、あり得ないと思う。晴れた西湖の景色を西施の薄化粧に、雨に煙る景色を厚化粧に例えるなんて、唐突すぎる。
明らかにその例えは、人々の常識になっていたはずだ。だからこそ、こう 『 うそぶく 』 のだ。
そういう「常識」となった「例え」があってこそ、この詩は人々に理解されることができるのだと思う。
(なお、中国では常用的に 『 西施 』 を 『 西子 』 という)
漢文の素養なんて無いので的外れかも知れないが、「 欲 」 の字にも引っかかる。「 もし、どうしても西湖を西施に例えたいなら、晴れと雨とで、『 薄化粧も厚化粧も、総て良し 』 と言うべきものだゼ 」
という意味合いがありそうに思う。
西施とは
西施は2500年前の美人。そのころの中国では、呉の国と越の国が、隣り合う国ながら、激しく争っていた。
呉の孫武は、「もし『呉越』が『同舟』しても、大風で舟が覆りそうになれば、互いに協力するだろうに」とその著書「孫子」に嘆いて書いた。【呉越同舟】
あるとき越王の死に乗じて呉が越に攻め込んだが逆に破れて、呉王は瀕死の重傷の中、王子に復讐を誓わせる。
新呉王はよき参謀を得て、「臥薪」して恨みを忘れず、復讐戦を越に挑み、滅亡寸前に追いつめたが、越王が命乞いするので許した。越王は、「嘗胆」して屈辱を忘れず、宰相の策を入れて、復讐のための手段として「西施」をはじめ幾人かの美人を呉王に献上する。【臥薪嘗胆】
呉王は、西施にはまってしまった。西施が眉をひそめると、ことのほか艶めかしく、市井では、醜女も眉の「ひそみに倣」ったと言う。呉王は、西施のために八景を築くなど、相当の金をつぎ込んだ。そのほか、越の策謀に乗せられ、奸臣を重用して忠臣を疎み、ついには殺してしまう。
越王は、呉王がその忠臣を殺したのを見て復讐戦を開始し、ついに呉を滅ぼした。越王の夫人は、夫が呉王の二の舞になることを恐れて、西施を革袋に入れ長江に沈めて殺したと言われる。ただし一説には、復讐の手段を献策した越の宰相が、間一髪西施を救出し、うまく逃がした、ともいう。
西施のような美人を『傾城』の美人といい、また『傾国』の美人という。同じことである。一たび顧みれば城を傾け、再び顧みれば国を傾く、という美人である。ただしわが国では江戸時代に、『傾城』の美人には、廓の美人という意味が加わった。
グーグルマップで見る、西湖 と 手賀沼
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