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談話室  第37話 幸谷から馬橋の社寺巡り
2013/10/06

コミュニティー新聞・「ニューファミリーじょうばん」の「ふれあい交差点」の記事に誘われて、幸谷〜馬橋の社寺巡りをしてきた。






赤城神社  右は巨石に囲われた、樫の巨木

地図上では2つの寺院が並ぶように見えるが、実は一つの寺院で、東が慈眼山福昌寺の本院、西がその観音堂で、幸谷(こうや)観音として知られている。左がその幸谷観音のお堂。

この社寺巡りで、幸谷の地名はかなり広い、もしくは広かったことに気が付いた。幸谷にはかつて幸谷城があって、1537年に小金の高城氏が築いたとされる。場所は福昌寺の北東とも、赤城神社の地とも言われる。

国道6号から目立つ社の杜が『蘇羽鷹』(そばたか)神社。『蘇羽鷹(そばたか)』様(もしくは曽場鷹大明神)は、北辰妙見様(北極星と北斗七星)とならび千葉氏の守り神だったが、明治になって、蘇羽鷹様も妙見様も、「実は国之常立神だった」とされ、正式なご祭神は『 国之常立神』 とされてしまった。明治政府は、神様は天神の系譜しか許さないという方針だったように見える。
しかし神社にある石碑には、「蘇羽鷹大明神」のみ記されていて、国之常立神の名は見えない。

かつてはこの地に、馬橋城があったと伝えられる。












萬満寺は鎌倉時代に真言の寺・大日寺として開かれ、後に廃れたが、室町時代に夢想国師の高弟が臨済の禅寺・萬満寺として再興した。

萬満寺の東に王子神社がある。萬満寺の守護神として創建され、王子権現を祀ったが、明治の神仏分離で独立の神社になった。
左は王子神社から萬満寺本堂を望む。

今のご祭神は、幸江序命(さちえわけのみこと)、市杜島姫命(いちきしまひめのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)と記されている。

いちきしまひめのみこと は、市寸島比売命 と書かれることが多いが。

松戸の馬橋の名の起こりとなった、「馬橋」という名の橋。長津川に架かり、旧水戸海道を通す。
大雨のたびに橋が流されて街道を行く人が難渋するので、萬満寺ゆかりの高僧が鞍の形をした橋を架けさせると、以後大雨でも流されることがなかった。

人々は喜び、鞍の形にちなんでこれを馬橋と呼んだ。

今は鞍の形はしていない。

鞍ってこういう感じでしょうか?



wikipedia より

馬橋駅長室にかかる駅名標

2013年6月6日の朝日新聞に、馬橋駅の宝物・改札口に掲げられた立派な手作り看板、の記事があった(啓子のスクラップより)。
この看板を作ったのは駅近くに住む二松学舎大学文学部教授、源川彦峰(みながわ・けんぽう)先生。緑青を塗ったケヤキ板に独特な字体の金箔文字が浮き上がる。
駅に飾られて20年、緑青は深い緑に変わった。

緑青・・・銅の錆、またそれをこそげ落として作った緑色の粉末の日本画絵の具。銅やブロンズの表面に自然にできて、内部腐食を防ぐ。鎌倉大仏もニューヨーク自由の女神も淡緑色の「緑青」の衣で身を守っている。

日本では、昭和後期まで、緑青は強毒もしくは猛毒と考えられてきたが、昭和中期から「他の金属と比較して毒性は大差ない」との研究成果が出され、1984年(昭和59年)、厚生省が「毒性はそれほど強いものではない」と結論を出した。(wikipedia)

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FURUICHI, Makoto