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談話室

 第39話 東京駅探検 究極のガイドブック

2015/01/12


1914年の竣工で、昨年開設100年を迎えた東京駅。その見どころ・名所は、web上でも数々紹介されているが、しかしそれらを精読しても、さてどこに行けばよいのやら、さっぱりわけのわからぬものがほとんどである。そこで新たに東京駅の見どころ・名所のインデックス・マップを作成し、諸兄らがこれらを訪ねるに便ならしむこととした。
なおこのページは、インデックス・マップ上で見どころをクリックして閲覧するを原則とするが、本文掲載の順を追うならば、自宅より列車に乗って東京駅へ到着後、先ずその改札内を一巡し、やがて改札を出たならば改札外を一巡する一筆書きを辿ることができるので、効率的に東京駅の見どころを巡るには、掲載の順を追ってご覧いただくことをお薦めする。


〜 東京駅100年の歴史・・・と思っていたら、つい時代がかった口調になってしまいました 〜

〜東京駅〜

インデックス 地図から探す
  番外:八重洲の地名の起源  
 




 


銀の鈴

八重洲口地下階、改札内に、東京駅の代表的待ち合わせ場所、「銀の鈴」がある。
この鈴は4代目で、東京藝術大学学長で金工家の、宮田亮平氏の制作になる。

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浜口首相遭難現場


1階に上がり右手(北)へ新幹線改札を回り込むと、「浜口首相遭難現場」のプレートと「現場」のマーキングがある。
  
【プレートの文】 浜口首相遭難現場  昭和5年11月14日、午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットフォームを歩いていた。このとき一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで陸軍の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものといわれている。
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東京駅のドームを被った郵便ポスト


中央通路を丸の内中央口前まで進むと、東京駅のドームを被った郵便ポストがある。
  
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地上ホーム 1番線 0km標


丸の内中央口前まで来たついでに、高架になっている1、2番線のホーム=中央線のホーム=に登る。この「東京駅地上ホームの1番線の0km標識」(0 km post)をとりあえずおさえておこう。0km標識は各番線にあるのだが。

駅の「○番線」の番号は、駅長室側から番号が振られる。
「1番線」は基本的に、どこの駅にもある。

ホーム中央より有楽町駅寄り、4号車停車位置になる。

各番線に0km標識があるが、この1番線の標識も、煉瓦の高架に載ったような、意匠を凝らしたものになっている。

東京駅にはこのほか1番線が2つある。地下の総武/横須賀線の1番線、同じく地下の京葉線の1番線である。特殊な駅だ。
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開業以来100年間屋根を支えた柱:今年6月撤去!


5、6番線=山手線・京浜東北線 品川方面行ホーム=の有楽町駅寄りの柱列、1914年の東京駅開業から100年間、屋根を支え続けた鋳鉄製の柱たちだ。

これが2015年6月には、屋根の更新で撤去となるようだ。
ただし2本だけは保存されるとのこと。
  
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5、6番線の柱列を最後に、いよいよ改札の外へ出る。最初は八重洲中央口を出て、八重洲の語源に迫ってみる。


ヤン・ヨーステンが住んだので八重洲


1600年に豊後に漂着した外国船があった。船はオランダ船リーフデ号、航海長はイングランド人・ウィリアム・アダムス、航海士の一人はオランダ人・ヤン・ヨーステンだった。この二人は、この年の関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康に重用され、外交や貿易に活躍した。
ヤン・ヨーステンは江戸城の内堀内に邸宅を貰い、日本人と結婚した。彼の名は、通称ヤ・ヨース=耶楊子=と呼ばれ、また書かれた。そして彼が屋敷を貰った内堀内の屋敷もヤ・ヨースの屋敷と呼ばれた。この屋敷地はやがて「八重洲」と書かれるようになった。

これが「八重洲」の始まりである。
ヤン・ヨーステンに関する掲示は、東京駅というよりは八重洲地下街にある。「東京駅探検」では、番外となる。

日本橋、京橋など付近が描かれた浮世絵とともに、充実した掲示になっている。


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雄勝石絵



雄勝石絵、「輝く」 。丸の内北口地下、旧・動輪の広場、
メトロ大手町駅への連絡地下通路への広場にある。



宮城県石巻市雄勝町では、黒光りする粘板岩が産出し、優れた硯材に加工されるほか、スレートとして建材にも利用される。雄勝石(おがついし)である。
東京駅舎復元工事では駅舎の屋根を雄勝石で葺かれることになっており、石巻ではその納入の準備が行われていたとき、東日本大震災の津波が襲った。
納入用に梱包されたスレートも、ことごとく津波に流されたとみられたが、しかし幸運にも流失は免れていた。人々は泥まみれのスレートを1枚1枚手洗いして綺麗にし、東京に送った。
いま、その雄勝石のスレートは東京駅の屋根を飾っている。

これを縁として、子供たちが雄勝石のスレートに彩色して制作された雄勝石絵、「輝く」 が東京駅に設置されることになった。

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動輪の広場



上の、雄勝石の「輝く」が設置された広場は、以前は「動輪の広場」という名前だったが、最近、「動輪」そのものが移動された。いまの「動輪の広場」は、丸の内南口地下にある。
展示されている「動輪」は、素晴らしく大きい。

C62の動輪である。
直径1750mm。

東海道本線が電化される前、特急「つばめ」・「はと」などを牽引した。
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原首相遭難現場



1階、丸の内北口に上がると、自動出札器とみどりの窓口との間に、原敬首相遭難現場の表示とマーキングがある。



【プレートの文】 原首相遭難現場
大正10年11月4日 午後7時20分、内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向かっていた。そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、いきなり刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。原首相はその場に倒れ、駅長室で手当を受けたが、すでに絶命していた。犯人は、原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し、背後関係は不明であった。

    



丸の内南口

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駅長室



駅長室側のホームから、1番線、2
番線、・・・ と番号が振られる原則。









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FURUICHI, Makoto