「文化7(年) 庚午 冬 12月 建」 と彫られている。1810年のことで、江戸時代後期にはなるが、このころに『指を差す』デザインとは斬新だ。とはいえ、浮世絵はゴッホなどヨーロッパの第一級の画家にも大きなインパクトと影響を与えているから、驚くことはないのかも知れない。
江戸時代、四日市は大名が泊まる本陣は中規模だったが、一般の旅客が泊まる旅籠は多くて、熱田の宮、桑名、岡崎、品川、箱根、浜松に次ぐ7番目だった。すぐ西に、京への東海道と伊勢への伊勢街道の追分があるからか。
お伊勢参りに向かう弥次さん喜多さんは四日市で、『やうやうと東海道もこれからは、はなのみやこへ四日市なり』。
その心は、(ようやく四日市まで来た。)この先花の都・京までは、四日ノうち(の旅程)だ。・・・実際は京−四日市間は3日が標準だったらしいから、4日のうちには間違いなく着く。
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