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[ No. 24 ] 柏のM古市 furuichi◇nifty.com 発言日:2004/08/17 (TUE) 03:29:04
No.23 の岡山県の古市さん、待ってました。岡山県北部は因幡国・伯耆国の古市郷にも近く、古代の河内の古市一族が進出した地方ではないかと考えているところです。また現代では倉敷市長が古市健三さん、日テレの古市幸子アナは岡山市出身、近世の画人・古市金峨も倉敷の人。近世〜現代の「古市有名人」の大産地ですね。
ところで近世の画人・古市金峨に関連して、岡山県児島の古市氏は毛利氏から浪人した一族と伝えられていますが、異説では伊勢の古市から来たものとも。なお、家紋は「丸に蔓柏」とのこと。
児島の古市の情報は、http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/huruiti.htm から。このHPはトップページに「転載禁止」とありますが「引用」ということでご勘弁いただきたいと思います。
[ No. 23 ] 岡山の古市 oldbazzar◇yahoo.co.jp 発言日:2004/08/16 (MON) 23:17:57
岡山県北部の古市です。家紋は抱き茗荷です。茗荷は冥加を表すので、古市はなにやら神道系の起こりかと思っていました。
[ No. 22 ] 西坊義信 nishinobo3701◇mary.ne.jp 発言日:2004/08/08 (SUN) 23:22:59
古市氏の家紋は丸に楓です。十六菊に双葉楓は古市氏の末裔である西坊家の家紋です。
[ No. 21 ] 柏のM古市 ホームページ furuichi◇nifty.com 発言日:2004/08/08 (SUN) 00:52:08
手元に1枚のコピーがあるのですが、残念ながら出典の記録がありません。このコピーはもともと明治時代の古市公威について調べたもので、同じページに古市胤子がありました。
フルイチタネコ 古市胤子(ふるいちたねこ) 1583-1658 後陽成天皇の後宮。父は播磨守古市胤榮(たねよし)。母は准三宮従一位近衛前久の女。天正十一年誕生。初め足利義尋(大乗院に居り高山と號し、のち還俗して義視といふ)
で残念ながらこのページは終わっています。
なお、このページには古市澄胤もあり、[No.19]千葉のBUZANさんは『澄胤を「ちょういん」と読んで法名だとする説が一般的』と書いておられますが、記事には
フルイチスミタネ 古市澄胤 足利時代の茶道家。圓城坊と號す。十五代将軍義昭に仕へ???この項、少しヘン、従五位下播磨守に叙任す・・・
とあり、「ちょういん」は誤用または愛称と思います。
逆なのが古市公威。ホームページの「書斎の雑記帳」[No.8]で紹介したように、大成建設の映画では古市公威(ふるいちきみたけ)としていますが、幼名は兵庫郎、通称・造次。諱(いみな)を孝粛、のちに改め公威、ということなので「こうい」が正しい。じつはこれは、本コピーがもとになっていて、
フルイチコーイ 古市公威(ふるいちこうゐ)
と紹介されています。
追記:上記の書名は『平凡社・大人名事典』でした。原著は1953-1955
[ No. 20 ] 西坊義信(にしのぼうよしのぶ) nishinobo3701◇mary.ne.jp 発言日:2004/08/06 (FRI) 20:43:12
奈良の古市氏は興福寺の子院発心院の家元でした。古市胤子の生年月日は何でお知りになられたかご教示下さい。ご多忙中とは存じますが宜しくお願い申し上げます。以前のメールアドレスでは送信出来ませんでした。
[ No. 19 ] 千葉のBUZAN fvgs2410◇nifty.com 発言日:2004/07/30 (FRI) 10:01:51
古市氏で有名な澄胤を「ちょういん」と読んで法名だとする説が一般的だが、これは「すみたね」で、彼の「名乗り」だと思う。「胤(いん)」は僧名に多いが「胤(たね)」は千葉家、相馬家等の通り字。14世紀末に千葉利胤(としたね)が河内古市氏を継いだという記録有り。更に澄胤の時代の将軍は足利義澄。「澄」の字を拝領したもので、これは名乗り(実名)に使うものであり入道名には使わない。
[ No. 18 ] 柏のM古市 furuichi◇nifty.com 発言日:2004/07/05 (MON) 01:05:16
柏のM古市です。家紋は「上り藤に一」。上り藤にかこまれた中央やや上部の空白に『一』の字、フジイチとは駄洒落みたいだなと思っています。
[ No. 17 ] 静岡の古市  発言日:2004/07/02 (FRI) 21:20:52
こんばんわ
幼いころに祖父の葬式で「丸に違い鷹羽」を見たような気がしているのですが記憶があいまいです。。
やはり勝手に家紋をつけるわけにもいかないとは思いますが・・

祖父は横浜に住んでいて父の代から静岡にいます。
もっと早くに興味を持っていれば探せたかもしれません
んんん残念。。
[ No. 16 ] 川崎の古市  発言日:2004/07/02 (FRI) 14:01:08
NO11で紹介してもらった古市ですが、家紋は「丸に下がり藤」です。
[ No. 15 ] ウィング wing◇wing-net.co.uk 発言日:2004/06/26 (SAT) 23:15:32
はじめまして 静岡のふるいちと申します。
管理人様先日はメールありがとうございました。

ところで古市の家紋とはどのようなものでしょうか?
同じ苗字でも違う家紋がありますが、
我が家は不明なのです。。
あるサイトでは「菊に楓」とあり、図柄は不明だそうです。
皆様の家紋はどのようなものでしょうか?
[ No. 14 ] 柏のM古市 furuichi◇nifty.com 発言日:2004/06/25 (FRI) 01:51:16
偶然見つけました。日本の土木学会の祖・古市公威生誕150年記念企画展『古市公威とその世界』が16年6月1日〜6月30日の期間で、土木学会土木図書館前ロビーで開催中! でももうすぐ終了! アレ〜! 見に行きたいけど今度の週末も予定があって行かれない。
古市公威先生は姫路のご出身。虹のホームページの雑記帳 http://homepage3.nifty.com/furu1/mdata/mac651.htm の第8話『日本の近代土木を築いた人びと =古市公威=』でも紹介しています。
こちらは出身大学は違うけれど同じく土木工学を学んだ者。ぜひとも見たいところですが。
行かれる方は、四谷の土木学会付属図書館、案内図は http://www.jsce.or.jp/library/page/lib17.html にあります。私と同じく行けない人は、http://61.199.33.80/Image_DB/photo/panel150/top2.html#top のページで見せていただきましょう。
[ No. 13 ] 羽曳野市古市のemu ホームページ  発言日:2004/06/20 (SUN) 20:18:47
ご無沙汰しております。羽曳野のemuです。サーバー移転されたんですね。益々のForumのご発展をお祈り申し上げます。
[ No. 12 ] 柏のM古市 ホームページ furuichi◇nifty.com 発言日:2004/05/02 (SUN) 02:11:37
古市フォーラムのホームページを infoweb から移転しました。(この記事は、新サーバーでのテスト記入です)
[ No. 11 ] 柏のM古市 furuichi◇nifty.com 発言日:2004/03/27 (SAT) 01:37:45
2年前の2002年3月19日、cario さん(川崎の古市さん)からメールを頂きました。

cario さんは種子島にご縁の深い方。種子島にある縁戚のお宅は島内最古の住宅で、今は国の重要文化財、『 古市家住宅 』。この家は種子島の古市家の宗家でありました。

cario さんは、昔の古市一族の墓があったところに建立された、石碑に刻まれた由緒書きを入手され、私にメールで送ってこられたのでした。

その碑文には、種子島の古市家が河内の古市郡を源流とすること、永禄年間=織田信長が活躍し始めたころ、桶狭間の戦いの前々年から姉川の戦いの年まで=に種子島家から請われて家老として来島したこと、などが記載されていました。

ここで私は悩んでしまいました。建碑の人の名まで書かれたこの文書を、私が明らかにして良いものかと   ・・・   それで、私は沈黙してしまいました。   ・・・   cario さんご自身で発表されたらいいのに、と思いながら、それから2年   ・・・   ようやく、頂いた由緒書きを出してみようという気になりました。下の文書がそれです。

古市家宗流之墓地
我が古市家は 永禄年中、種子島家より招かれて河内國古市郡より来島せし 家老清三を始祖とする。次代 実置の四男源左衛門 坂井村に任を得て 赤尾木よりこの地に来住し 宗家を建つ。
爾来三百数十年 子々孫々相継ぐこと十代 その祖霊この地に鎮まる。
これを永遠に保全し いささか末裔の至情を致さんと この碑を建つ。
昭和五十二年二月十四日
始祖以来十三代之孫 古市秀一


じゅん 氏の 「 All about 種子島 」 にある 「 種子島家譜のすばらしい世界 」 を調べてみると、「種子島の古市氏」は、家譜巻三、永禄四年(一五六一:桶狭間の戦いの翌年)の「古市舎人」と「古市長門守」が初出でした。

どうやら種子島の古市家の家祖は、1558年から1561年の間に、河内國古市郡から来島されたようです。

河内から古市氏を招いたのは種子島のお殿様。このお殿様は、[No.3]やや さんのご発言にあるとおり、平 清盛 の子孫でした。河内から始まる古市の系譜・2.鈴鹿の古市 で、三重県から京都に出世するまでの、平氏と古市一族の深い関係を書きましたが、それから400年後の種子島で、再び古市一族は平氏の棟梁を補佐する関係になったようです。
[ No. 10 ] Web地蔵 ホームページ  発言日:2003/11/19 (WED) 09:19:09
アイデア求めて漂流中、ここにたどり着きました。
深い内容です。
[ No. 9 ] 柏のM古市 ホームページ furuichi◇nifty.com 発言日:2002/04/23 (TUE) 01:59:26
岩波文庫の『日本書紀』を読んで、『古市』に関することを『研究ノート』にまとめました。URLは http://village.infoweb.ne.jp/~furuichi/mdata/furuichi/note/furuichi01.htm です。
久々の更新ですが、4月はじめにはプレサリオのHDクラッシュという事故があり、一時期過去のメール・アドレス・HPデータなどのすべてを失い大変不便しましたが、このほど必要なデータをめでたく救出しました。
[ No. 8 ] 羽曳野市古市のemu mzk◇land.linkclub.or.jp 発言日:2002/01/18 (FRI) 00:58:21
柏の古市さん、種子島の古市さん、今年もよろしくお願いいたします。
さて、河内古市からの発言ですが、種子島の古市さんが述べておられる事に関係するかもしれませんが、我が古市にも確かに市がよく開かれていました。
私の記憶では、20年ぐらい前までは、1の付く日には「ひる店」があり、確か21日には、冬、夏問わず「夜店」が開催されていた覚えがあり今でも露天商組合が有ると聞きます。
また、応神天皇が渡来人の「王仁氏」では無いかと言う説は有名です。
このForumに参加させて頂いて、改めて我が地域に興味持たせて頂き感謝いたします。
[ No. 7 ] 柏のM古市 ホームページ furuichi◇nifty.com 発言日:2002/01/12 (SAT) 03:13:02
種子島の古市 さん、ご記入ありがとうございました。次回の続編が楽しみです。
さて私の方ですが、発言No.4 でお約束した、伊勢の 『 古市 』 の改訂をようやく果たしました。
[ No. 6 ] 種子島の古市 furu◇dmax.org 発言日:2002/01/10 (THU) 12:58:59
柏のM古市さん、初めまして。

以前から貴方のHPはずっと気になっていました。それに「All about 種子島」の管理人から種子島の古市姓について、貴方からのお尋ねが、私の元に転送されてきました。

「市」とは古代、「井戸」が語源であると私は理解しています。井戸があれば人や馬が集まり、市が立つようになったことでしょう。いにしえのいど=古の井戸>古の市>古市ではないでしょうか。しかるに「古市」とは、井戸を掘る民の「DNA」であると私は信じます。

以前ベトナムに雑誌の取材で訪問した折に、首都「ハノイ」は中国語で「河内」のことと知りました。
「河内古市古墳群」に見られるように、古市のDNAは「応神天皇陵」の構築にかかわった渡来人が祖ではないでしょうか。故人の古市公威(1854-1934(80)さんの存在には説得力がありますし、古市の姓や地名が、川沿いや海沿いに多いこととも一致します。

「古市」の初見は『日本書記』だと思います。壬申の乱(天武元年(672)6.24-7.23)の時に、大海人皇子(後の天武天皇)は、第一子の高市皇子を軍の総大将にした。挙兵した翌日の6月25日、以下『日本書記』より

(天武天皇は)明け方に刺萩野につき、暫く休息して食事をした。積殖(伊賀国拓殖)の山口に至り、高市皇子が鹿深(甲賀)を越えて合流した。
民直大火・赤染造徳足・大蔵直広隅・阪上直国麻呂・●古市黒麻呂(ふるいちのくろまろ)・竹田大徳・胆香互臣阿部が従っていた。
大山(鈴鹿山脈)を越えて、伊勢の鈴鹿についた。
伊勢国司三宅連石床・介三輪君首および湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家らが、鈴鹿郡で天皇の一行をお迎えした。
そこでまた五百の軍勢を集めて、鈴鹿の山道の守りを固めた。

尚、私の出身地「種子島の古市姓」の由来については次回に。
[ No. 5 ] やや yaya◇hat.hi-ho.ne.jp 発言日:2001/12/10 (MON) 15:06:48
四日市の古市さんが固まって住んでいる町があります。
ここには吉原さんという人達も多いそうです。この古市さんは、やはり白子が故郷なんでしょうか?白子といえば、
ロシヤに渡った大黒屋が有名ですよね?白子から四日市に移住したのは何時ごろでしょうか。江戸封建時代ではないでしょうね?やはり。
[ No. 4 ] 柏のM古市 ホームページ furuichi◇nifty.com 発言日:2001/11/18 (SUN) 18:01:48
伊勢の 『 古市 』 1,2 で紹介した 『 古市伊藤武者 』 は、三重県北部、今は鈴鹿市の白子(しろこ) がその故郷とわかりました。
鈴鹿市白子町の古市は古い地名として記録にあるだけで、源平合戦の時代にすでに古市だったとのことです。
これは 絵馬 の作者氏にお教え頂きました。
従って現在の三重県北部の多くの古市さんは、この白子の地が故郷と考えられます。関連するホームページの方は追々修正します。
[ No. 3 ] やや yaya◇hat.hi-ho.ne.jp 発言日:2001/11/15 (THU) 17:50:38
古代よりの古市という地名と、現在の苗字分布が重なるのは三重と岡山でしょうか? 特に、北勢の古市は特化していますね。それから鹿児島(河辺町、種子島)の古市氏。種子島には古市邸という国の文化建築があるようです。さらに源平合戦で負けた平清盛(伊勢発祥、津市)の曾孫が北条政子のお情けで種子島界隈の地域に所領を与えられています。
[ No. 2 ] 柏のM古市 ホームページ furuichi◇nifty.com 発言日:2001/11/11 (SUN) 15:19:37
古市の系譜のまとめ『 (3)3番目は香川県高松市周辺 』 について、古市庵の方からメールを頂きました。それによると・・・
讃岐うどんの 『 古市庵 ( こいちあん )』 も、寿司と総菜の 『 古市庵 ( こいちあん )』 も、同じチェーン店でした。そして創業されたのは高松市ご出身の 『 古市 ( ふるいち )』 さん。現在の本拠は大阪。会社の読み方は ” こいち ” ですが、名前は ” ふるいち ” さんだそうですから、どうやら香川県も 「 ふるいち 」 さんで良かったようです。
古市庵さん、ありがとうございました。これからも頑張ってください。応援しています。
[ No. 1 ] 柏のM古市 ホームページ furuichi◇nifty.com 発言日:2001/11/03 (SAT) 22:52:14 2001/11/11改作
古市 Forum のページです。地名や人名の 「 古市 」 に関係することを自由に書き込めるように作りました。関係する話題を自由にご記入ください。
まずはじめに・・・
熊本の茶道の古市家の活躍を伝える情報です。熊本の名園:水前寺公園は、古市宗庵 が作ったものでした。作庭を命じたのは細川三斎忠興の子・忠利。寛永13年(1636)のことで、茶屋を中心とした、今ほどは大きくない庭園でした。
その後寛文10年(1670)に細川綱利によって大規模な作庭が行われて現在のような大庭園になったのですが、これを指導したのが萱野甚斎と二代目古市宗庵。初代古市宗庵の高弟にに萱野隠斎があって師の宗庵とともに藩の茶道方を勤めたということなので、甚斎というのは古市流を汲む萱野流の二代目でしょう。
また初代古市宗庵にはもう一人小堀長斎という高弟があって、小堀流を開いています。それで古市流、萱野流、小堀流の3つを肥後古流三家といい、利休の風を忠実に伝えるものといいます。
なお古市流は十世まで続き、明治になって門人の武田 元 がこれを継いだということなので、古市の名を継ぐ家元は、今はもう残っていないのでしょうか?
上の情報は水前寺成趣園の社報のページで発見。
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