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第24話 邪馬台国の卑弥呼はヤマトの国のヒミコ |
<1> あるとき週間読売に、「年輪年代法という新しい科学技術で、奈良県桜井市の古墳が3世紀初めに築造されたことがわかった。これは従来の説を半世紀ほど遡らせるもので、魏志倭人伝に登場する卑弥呼の時代に重なる。纒向の巨大な『箸墓』古墳は、従来から卑弥呼の墓ではないかといわれていたが、にわかにその現実味を増してきた」 との記事がカラー写真付きで数ページにわたって掲載された。 いまからこの掲載時期を探ってみると平成13年5月31日付け読売新聞に同様の記事があるので、きっとその少し後のことだっただろう。
それから7年経っているが、今では専門家の間では、邪馬台国が奈良県の「やまと」の地にあっただろうということが大方の共通認識になっているようだ。
いまの学校教育でどのように教えられているか知らないが、ある程度の以上の年代の人間は、邪馬台国は九州にあったもの、と漠然と感じているものが多いと思う。そういう「古い」人間は、考えを改めなければいけない。
◆ 年輪年代法で奈良県桜井市の纒向(まきむく)勝山古墳から出た板材の年代が西暦203〜211年に伐採されたことを明らかにしたのは奈良文化財研究所の光谷拓美氏。これで古墳の築造年代を3世紀初めと推定した。一方で中国の史書により卑弥呼の死は248年ごろと考えられる。従来古墳時代の始まりは4世紀中頃とされていて、魏志に卑弥呼が死んで「大いに墳墓を造る、径百余歩」はウソだろう、といわれてきた。しかし卑弥呼の死の時期と纒向の古墳築造年代が重なった。なかでも後円部の径約 150mの 『箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が高くなっている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/箸墓古墳)』。
◆ 炭素年代測定法(放射性炭素・C14による木材等の年代測定法)も従来からの古墳築造年代を繰り上げる「年輪年代法」の結果を支持している。(http://ja.wikipedia.org/wiki/箸墓古墳)
◆ 古代中国の史書と現代の科学技術がウソでないなら、『親魏倭王』の封号を与えられた卑弥呼は地方豪族ではなくて当時の日本の中央を代表する王であり、その死後大いに墳墓を造られたのは奈良県の纒向の大古墳でなければならない(この当時、纒向以外に大古墳はない)。つまり、邪馬台国は奈良県(大和)の纒向の地にあったものとして史書を読まなければならない。
<2> 「邪馬台国」も「卑弥呼」も、中国人が漢字で書き取った文字表記であって、日本で「ヤマタイ」または「ヤマト」の国、「ヒミコ」と聞き取れるように呼んでいたものと思う。
◆ 「邪馬台国」は江戸中期の新井白石までは「ヤマト」国と読んでいた。「ヤマタイ」国と読み始めたのは江戸後期の本居宣長から。本居宣長の「ヤマタイ」の呼称の動機は、「日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない」という立場からであって、「馭戎概言」において大和国とは別の筑紫(九州)にあった小国であり、卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長であると説いた。とある。(http://ja.wikipedia.org/wiki/邪馬台国))
不純な動機である。
邪馬台国は奈良県の「ヤマト」の国だったことが明らかにされてきているので、以後は 中国の史書の記載についていうときのみ「卑弥呼」、「邪馬台国」と書き、そのほかでは、「ヒミコ」、「ヤマト」の国、と書くことにする。
ヤマトの国は今の奈良県に存在した「都市的村落国家」あるいはそれよりも大きい「地方国家」までのもので、わが国の北九州〜中部北陸までの、当時の村落〜地方国家群の盟主であったものと考えられる。
このヤマトを盟主とする国家連合と、これに加わらない、あるいは敵対する村落国家やそれらの連合をあわせて、中国・朝鮮地域では同一人種のまとまり、あるいはまとまり住む地域と考えて「倭」、「倭人」と呼んでいた。日本側も、中国・朝鮮地域との外交にあたっては自国地域を「倭」と自称して書き、自らは「ヤマト」と読んだ。
ヒミコのヤマトは北九州に中国・帯方郡の使者を受け入れ、自らも帯方郡や中国国都に使者を送る、外交・交易を重視した政策を指導した。これはヒミコのヤマトの国家連合の、大きな特徴である。
<3> 日本の古代を考えるとき不思議なのは、古事記・日本書紀に ヒミコ が登場しないことだ。 記紀の作者・制作を命じた者にはヒミコの記憶がないと考えられる。
これは記紀を著した天武天皇に至る大和朝廷の系譜上にはヒミコが存在せず、かえって大和朝廷が攻め滅ぼした、過去のヤマトの王朝の系譜上にヒミコがあったものと考えられる。
ヒミコのヤマトを攻め滅ぼした戦いは、いわゆる「神武東征」の戦いであったのではないか。
◆ わが国を神代から説き起こした古事記・日本書紀は、本来なら魏や晋との外交の経緯を事実として記さなければ張らない。しかし日本書紀では神功皇后紀に
魏志に云はく、明帝の景初の3年の6月、倭の女王、大夫難斗米等を遣(つかは)して郡に詣(いた)りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守ケ夏、吏を遣して将(い)て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。
の条があるが全く主体的な文ではなく、「これが神功皇后の事跡かどうかは読者の想像にお任せしますヨ」という書き方。この記述に続いて同様の魏志に云はく、の記述が2条ある。
◆ 一方では神功皇后のすぐ次の代・応神天皇紀で、
37年の春2月の戊午の朔に、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉(くれ)(=東晋か宋)に遣して、縫工女(きぬぬいひめ)を求めしむ。・・・ まず高麗へ渡ったがその先の道がわからないので高麗の王に依頼し、先導者を付けてもらって呉に到着できた。呉の王は4人の衣縫姫を与えてくれた・・・と、漢字94文字の文がある。これは応神天皇紀の事跡を主体的に記したもので、嘘か真かは別として、事跡として書くならこう書かねばならない。
◆ その次の代の仁徳天皇紀でも、
58年の・・・冬10月に呉国(=宋)・高麗国、並に朝貢(みつきたてまつ)る。 とある。これも主体的な書き方だ。
◆ 上記の日本書紀上の応神天皇・仁徳天皇の事跡は、宋書にある「倭王讃」や「倭王珍」の記述に対応するものと考えられているが、「倭王讃」・「倭王珍」がどの天皇にあたるのかの比定は定まっていない。
◆ これらから見れば神功皇后紀の 魏志に云はく、 の記事は明らかに異常で、あったならあったと書き、または些細なことで(場合によっては忘れられていることで)あるなら、全く記述しないのが正常である。これは記紀を制作した者にヒミコの記憶がないのに、魏志とつじつまを合わせなければならないと考えて姑息な記述をしたと断じざるを得ない。
<4> ヒミコのヤマトを攻め滅ぼして成立した大和朝廷は、ヒミコのヤマトの緩やかな国家連合ではなく、強固な中央集権国家を目指した。歴代の天皇は日本各地を征討戦で切り従えた。そればかりではなく、ヒミコの死の120年後ごろには朝鮮半島に出兵して支配を及ぼし、任那を領有し、百済・新羅から朝貢させた。その記録は高句麗・好太王(広開土王)の碑に残る。
このように大和朝廷は国力の充実とともに、まず武力で朝鮮半島に進出してめざましい成果を上げたが、やがて高句麗に敗れたころ、ようやく中国に外交使節を送った。これはヒミコの死から160年ほど後になる
大和朝廷の性格をヒミコのヤマトと比べると、中央集権、軍事優先、外交二の次、という感がある。これは以後現代に至る日本のあり方・性格と通ずるように思う。
◆ 広開土王碑の碑文は、一時期「明治以降の大日本帝国陸軍の捏造だ」、と韓国・北朝鮮側から主張されたことがあったが、2006年4月にそれは完全に否定された。中国社会科学院の徐建新が1881年に作成された現存最古の拓本と現在の碑面が完全に一致することを発表したからだ。
広開土王碑の碑は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために息子の長寿王によって414年に建立された。これは1880年頃に中国(清)の農民によって土中から発見され、その翌年と想定される時期に拓本が取得されていたのだ。
◆ その広開土王碑の碑文は一部判読不能の部分もあるが、一般に次のように読まれている。
・ そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
また、そのほか倭に関して次のような記載もある。
・ 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
・ 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
・ 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
◆ 大和朝廷が初めて中国に使節を送ったのは広開土王に大敗させられた9年後の413年のことで、倭王讃が東晋に貢物を献じたと記録されている。
◆ 以後は中国を統一した宋に朝貢し、438年には倭王珍が「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求めたが、宋の文帝は、珍を「安東将軍倭国王」に任じた。同時に倭王珍は、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任ずることを求め、許された。
◆ 451年になって、宋朝は倭王済に対し、「安東将軍倭国王」に加えて「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号した。また同年中に「安東将軍倭国王」を「安東太将軍倭国王」に進号させた。
◆ その他さまざまな経緯があるが、502年に梁の武帝がその「梁」の建国に伴って、あらためて倭王武を征東将軍に任じた。これが一連の「倭の5王」と中国との関わりの最後の記録。その60年後に任那日本府は新羅のために滅亡させられた。以後、大和朝廷の中国への使節は600年の遣隋使まで絶える。
◆ 大和朝廷は自尊心が高くて中国への朝貢を当初のうちは無視していた。そして武力で朝鮮半島に勢力を及ぼそうとした。その作戦は最初は調子よく行っていたが、やがて形勢は怪しい状況になる。そこで初めて中国に朝貢して大仰な称号をたびたび求めるようになった。これは天皇の代替わりで、先代と同じ称号を継承できるよう求めた者を含む。中国も当時の日本の朝鮮半島における勢いを認めてある程度の称号を与え続けた。しかしやがて朝鮮半島の形勢が回復不能なほどに不利になると、日本の中国への朝貢は絶えてしまう。いかなる称号を中国から与えられても、朝鮮半島での形勢挽回はならない、と見て取ったのではないだろうか。この時期、倭の5王時代の大和朝廷の中国への朝貢は、朝鮮半島政策上から大仰な称号を中国から得ることを第一とする朝貢であって、中国との直接通商・文物導入などは二の次であったように思われる。これはヒミコのヤマトの性格とは大いに異なるものである。
◆ 大和朝廷の自尊心の高さは、第2回遣隋使において、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや 」 と書を贈ったことでもわかる。
<5> ヒミコのヤマトの系譜はなにか・・・これは出雲系の国であったと想像する。
これは証明できないことだが、
(1)大和朝廷の直前の最大勢力は、出雲の勢力だった。
(2)出雲系の諸王を象徴するオオクニヌシは、出雲を根拠地にし、因幡、伯耆、紀、大和、と足跡を残す。
北陸の越の国、九州の宗像にも縁がある。
(3)後のタケミナカタの敗走路から、信濃の諏訪まで勢力圏だったと想像される。
(4)大和の三輪山の祭神・オオモノヌシ(大物主)は、オクニヌシの和魂(にきみたま)とされる。 オオクニヌシ自らがヤマトの三輪山に神殿を造った。
・・・これらから、大和朝廷以前には出雲系の勢力が山陰−近畿−中部と勢力下に置き、中でも大和を重要な根拠地としていたと考えられるからだ。
<5>(2)に関して、
◆ 古事記に依れば、オオクニヌシは、「大国主」をはじめ、「大穴牟遅(オオナムヂ)」「葦原色許男(アシハラシコヲ)」「八千矛(ヤチホコ)」「宇都志国玉(ウツシクニダマ)」と5つの名を持つ。日本書紀ではこれに「大物主(オオモノヌシ)」「大国玉(オオクニタマ)」が加わり7つの名となる。これらは出雲系の「ヤマトの国」を滅ぼした大和朝廷が、伝えられる前政権の逸話をさがしたところ、順序も脈絡もわからないまま多くの王の名が登場する物語が採取されたため、一人の王の話に統合してしまったのだろう。
◆ 古事記に依れば、オオクニヌシは出雲から因幡の国へ行き、評判の高かったヤガミヒメを得て妻とした。素兎(しろうさぎ)伝説はこの経過上の話。この間オオクニヌシは競争相手に伯耆の国で殺され、母の力で生き返った。すぐそのあとにももう一度殺され、再び母の力で生き返る。
オオクニヌシは競争相手から逃げる経過で、紀の国に一時避難した。
なおオオクニヌシの正妻は、やはりこの逃避行の途中で立ち寄った黄泉の国のスサノオの娘・スセリビメ。オオクニヌシはスサノオの神威ある剣と弓矢、天の詔琴を盗んでスセリビメと駆け落ちし、神威の剣と弓矢でライバルを滅ぼして出雲の主となった。
◆ オオクニヌシは当時の「出雲の日本」の統治権を確立したあと、北陸の越の国を訪れ、「八島国(自分の日本国内)で妻を娶ることができなくて、遥かな遠くの越の国に素晴らしい女性がいると聞いてやって来ました 」 とヌナカワヒメに殺し文句を並べてプロポーズし、遂に妻とした。
越の国は直接の支配地域ではなく、影響下の国または友好国だったと考えられる記述である。
◆ オオクニヌシが意気揚々と越の国から帰ってくると、正妻・スセリビメの嫉妬が待っていた。居心地が悪いのでオオクニヌシは(どうやら大軍とともに)、大和の国に上った。ヌナカワヒメを大和の国に隠し置いたのだろう。
そのときオオクニヌシが愛する正妻に残した歌、「・・・むら鳥の わが群れ往なば、ひけ鳥の わが引け往なば、泣かじとは 汝は言ふとも、・・・汝は泣かさまく、朝雨の 霧に立たむぞ、若草の 妻の命 」。 スセリビメが返して「・・・(あなたは男だからいろんな所に妻を持てるでしょうが) 吾はもよ 女にしあれば、汝を除て 男はなし、汝を除て 夫はなし、・・・」と歌い、二人は仲むつまじく酒杯を交わして愛が永久に変わらないことを誓い合ったとサ。
◆ またオオクニヌシは胸形(宗像)のタキリビメも妻としている。ここもまた、影響下の国または友好国であったのだろう。
ヒミコは大和朝廷の東征で滅ぼされる前のヤマト(奈良県在)の女王だった。
そしてその系統は、出雲の一族であった。
ヒミコのヤマトは、北九州〜中部北陸日本の国家群連合の盟主だった。
ヒミコの記憶は、大和朝廷に受け継がれることはなかった。
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これが本稿の結論です。
岩波文庫「日本書紀」「古事記」、wikipedia を参考にし、一部引用しました。
引用文はBROWN で表示しました。RED 表示はこの稿の重点です。
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FURUICHI, Makoto
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