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談話室  第25話 日本の国号
2008/12/31


24 邪馬台国の卑弥呼は・・・
25 日本の国号
26 日本はニホンかニッポンか

 国号・「日本」は、現在では「にほん」と読んでも「にっぽん」と読んでもよいことになっている。
 ところで日本は昔、中国から「倭(ワ)」と呼ばれていた。またわが国自身は自らの国を「やまと」と呼んでいた時期があった。それが今では「日本」。欧米語圏では、例えば英語なら「Japan」。このへんの経緯はかなり明らかになっている。それを下にまとめ考察を加えてみたい。

 1  紀元前の前漢の時代から中国に朝貢する日本人の国があり、漢は日本地域を「倭」と呼んだ。
 「倭」の名称は、朝鮮半島人が日本地域を呼ぶ名称を参考にしたかも知れないが、中国側が悪字を選んで勝手に決めたかも知れない。
 日本は村落ないしは小地方国家の時代で統一国家はなく、従って自覚できる国号はなかった。
 朝鮮半島人は日本地域を「ワ」と呼び、中国に倣って「倭」の字を使っていたと考えられる。
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 紀元前5世紀ごろか? 山海経に、東海遥かに扶桑が生いる国があり、そこから日が昇る、その島国を扶桑国と呼ぶ、との記載があった。また東海上に蓬莱国があるとも。
 紀元前・前漢の時代、『漢書』の地理志に、楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。とある。
 57年・後漢の時代、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
 107年・同 倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
 107年・同 会稽(今の上海付近)の海外に東テイの人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する
 この間、日本では「漢委奴國王」の金印を受けた王がいた。
 「倭」は単独国ではなく、日本地域全般を指すものと思われる。「倭人」は統一政権を持たない「倭」地域の人、という意味だろう。中国南部に使者を送る倭の国もあった。


 2  3世紀中葉、中国の魏に「ひみこの『やまと』」の国が朝貢し、ひみこは『親魏倭王』の称号を得た。魏は『やまと』の国は「倭」を統一すべき国と考えたと思う。
 日本では、しかしまだ国号を持つべき統一国家はなかった。「やまと」の国が「倭」地域の過半に影響力を及ぼす最大勢力になっていたが、いまだ「まつら国」、「な国」、「いと国」などの村落国家に分かれていた。

 3  3世紀の後半か、神武神話の「天孫の一族」が「ひみこのやまと」を滅ぼし、新・「やまと」朝廷を築いて日本の統一に向かう。そこで大和朝廷は「やまと」を国号とし、対外的には中国文字で「倭」と示した。この記録は5世紀の、「倭の五王」の朝貢として知られる。
 一方、日本は4世紀中葉には朝鮮半島に出兵し、やがて朝鮮半島に対しては「日本」と書く国号を示し始めたようだ。当時、「倭」が悪字であることに気が付いていた。そこで国号「やまと」を表す文字に『日本』という中国文字を選んだことはなかなか独創的な発想だ。朝鮮半島人に対して「やまと」の優越性を示したい意識は多分にあっただろう。しかし朝鮮半島の人々は依然として日本を「倭」と書き「ワ」と呼んでいた。
 この間国内では一貫して、国号は「やまと」であった。「日本」と書いても「やまと」と読んだ。
 中国に朝貢するわが国の国王が自ら「倭」、「倭王」と名乗った理由は簡単で、当時の東アジアは中国中心の世界であり、文字は中国文字(漢字)しかなかった。中国が承認し使用する「国号文字」を表記するほかなかったのだ。
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 「倭」も「日本」も、その表記は元来外国語である「中国語」、「中国語文字」の表記であることに注意されたい。今の日本の首相や政府が外国に対して日本を「ジャパン」と呼び「Japan」と、書くとしても、それは日本の正式国号ではない。あくまでも「日本」と書き「にほん」または「にっぽん」と読むのが国号だ。
 5世紀には日本は中国の東晋・宋に朝貢し、日本国王は自ら「倭」、「倭王」と名乗ったが、これも上記と同じこと、日本の国号とは関係がない。今の日本の首相や政府が JAPAN と名乗るのと同じことだ。



 4  689年の浄御原令または701年の大宝律令で「日本」の字が正式国号と定められた。この読み方は「やまと」である。後に720年に成立した「日本書紀」では「国生み」の時点で「大日本豊秋津州」を生む、と書き、「日本をば『耶麻騰(やまと)と云ふ、下(しも)皆此にならへ」と注記する。
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 712年成立の古事記では、「やまと」と読むべきことばは全て「倭」の字が使われたが、720年成立の日本書紀では、わが国と天皇を指す「やまと」には「日本」の字が、それ以外では「倭」の字が使用された。例えば神武天皇は「神日本磐余彦天皇(かむ・やまと・いわれびこの・すめらみこと)」と「日本」の用字をするが、皇族であっても天皇でなければ「倭迹迹日百襲姫(やまと・ととびももそ・ひめ)」である。
 日本書紀では、「日本」は国号と天皇名に用いる特別な用字で「やまと」と読み、「倭」はそれ以外のもので「やまと」と読むべきことばの用字として残った。また狭義には奈良県地域を「倭(やまと)」と言い、大和朝廷の威光が届く範囲のわが国全体を「日本(やまと)」と言うと考えたと思う。
 狭義の「倭」(=奈良県地域)は701年には「大倭」国と書くこととされ、752年もしくは757年に「大和」国と書くこととされた。したがって、「大和(やまと)」がわが国の国号とされたことはない。しかし中国風ではなくて日本風であることを古くは「倭(やまと)」風と言い、やがて「和風」と言うように、「倭」=「和」は、日本の風習等を言うことばとして定着した。和食、和服、和訳、・・・、さまざまなことばに「和」を付けて「日本式」であることを表す。
 余談だが、「和琴」は「わごん」と読むが12世紀の名義抄では「日本琴」と書いて「やまとごと」との読み方が書かれている。中国の琴に対する名称だろう(岡山県に児島唐琴(コジマカラゴト)の地名がある。)



 5  折しも690年、中国では皇后武照が唐の有力者を殺して国を乗っ取り、国号を「周」とした。自らは聖神皇帝と号した。いわゆる則天武后だ。
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 則天武后は655年ごろから実権を握り、663年白村江で日本に勝ち、668年までに百済・高句麗を滅ぼした。705年に旧王朝側に迫られて退位し、中国は再び「唐」に戻る。


 則天武后が国を簒奪していた間の702年、遣唐使が則天武后のもとに遣わされ、自ら「日本国」からの使者と名乗った。「なぜ国号を変えたのか?」の則天武后の質問に、使者は次のように答える。
@日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と爲す。 古代から中国人も日本人も抱いている、「日の昇る方向の、東方海上の国」を則天武にイメージさせたのであろう。
A或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。 本音であろう。
B或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。 「なぜ唐が周に変わったのか?」、「武氏が新しい王朝を建てたからだ」のやりとりもあったらしい。武后に『否』と言わせないためのウソの方便であったろう。
 結局、『史記正義』(736年撰)で、「武后、倭国を改めて日本国と為す」となり、ここに中国はわが国の「日本」の国号を公式に承認した。以降中国では、海賊を称して「倭寇」のことばは残る(豊臣秀吉の朝鮮侵攻も「倭寇」と呼ばれた)が、(平和的に言う)日本の国号は以後「日本」に統一される。
 702年が中国による、国号表記「日本」の承認である。中国での読み方は「ジツホン JITSUHON 」だったと考えられる。


中国は紀元前から、わが国地域を指して中国語で「倭(ワ)」と呼んでいた。

わが国では、大和朝廷がほぼわが国を統一し、国号を「やまと」とし、5世紀以後の中国朝貢では中国語文字で「倭」を示した。

7世紀ごろからは、まず朝鮮半島人に向けて、「日本」と書いて「やまと」と読む国号を示し始めた。

そして遅くとも701年までに、わが国は正式国号を「日本(やまと)」と定めた。

中国を中心とする当時の「世界」が正式にわが国の国号表記「日本」を認たのは702年・則天武后の「周」朝のときだった。わが国でのその読み方は「やまと」だった。

なお、「大和(やまと)」はわが国を指す形で使われることもあったが正式国号として使われたことはなく、基本的には奈良県地方を指す地域名だった。


これが本稿の結論です。


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FURUICHI, Makoto