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談話室  第32話 那覇は海から生まれた
2012/07/08


 

第32話 那覇は海から生まれた       第33話 都の香りする那覇       第34話 波之上から

 

「沖縄」は昔はヤマトから見た遠くの良き漁場、「那覇」は首里の目の前の、良き漁場だった。

奈良時代から『 おきなわ 』と呼ばれ、良き漁場と知られた『 沖縄 』
請われて中国・唐から日本へ渡った鑑真和尚の伝記、『唐大和上東征伝』(奈良時代)に、「十六日發、廿一日戊午、第一第二兩舟同至阿児奈波嶋」とある。「阿児奈波」が『おきなわ』である。
次いで鎌倉時代、『平家物語』 長門本巻第四に、鹿ヶ谷事件で俊寛らとともに流罪となる丹波少将藤原成経の流される先の説明として、「 さつまがたとは惣名也、きかいは十二の島なれば、くち五島は日本へ随へり、おく七しまはいまだ我朝に従はずといへり、白石、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、あ世波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは、きかいが島といへり」とある。未だ「本朝」に従わぬ「奥」の島に数えられている。
「おきなは」の「おき」は、「遠くの」、「沖合遙かの」、「奥の」という意味である。「なは」は、漁場の意味というのが定説となっているようだ(漢字では、「漁場」ではなく「魚(な)場(は)」だろう。)。
南九州からこの沖縄の島へ、先史時代から人々は継続的に移り住んでいったようだ。それも10〜12世紀ごろの、農耕民の移住が沖縄の成立に重要だったと言われる。「沖縄県人は単独の民族だ」と主張する少数意見もあるが、多数意見は「南九州人と共通性の高い日本人」だし、「沖縄の言葉は日本語とは別の言葉」との少数意見もあるが、やはり多数意見は、「沖縄の言葉は日本語の方言の一つ」というものだ。・・・沖縄では、古くから、かな漢字混じりで文を書いていたそうだ。この文化では、「沖縄ことばは日本語」というほかない。

沖縄の中の良き漁場、『 なは(那覇) 』
『 おきなは 』が「沖」の「漁場」なら、『 なは 』 は目の前の「漁場」だ。どこの目の前かというと、「首都である首里」の目の前だ。次の図は、1450年頃の海岸線を太い赤線で現在の那覇市域の地図上に重ねたもの。また濃い青で国際通りを描き、明るい緑で当時建設された、「長虹堤」を描いた。

那覇市域の北西部分は、かなりのところ、海の底だ。いまの国際通りも、ところどころで海に潜ってしまう。
しかしこの、海の底が「漁場=なは」だったのだと思う。
「波之上」から「久米」周辺にやや大きな島・「浮島」があって、そのほか海面上にはたくさんの小島が浮いていた。宮城県の松島海岸のような光景だったと思う。この海一帯が、「なは」と呼ばれていたのではないか。

この浮島に首里の外港が開かれた。「なはの港」と呼ばれたものと思う。
図は、琉球大学環境建設工学科 教授、AECD (島嶼環境・文化デザイン)代表 福島 駿介 「長虹堤の跡を追って」
http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/sima_23/sima23-04.pdf
「那覇の古海岸線と地名」を、国土地理院地形図に、私が適当に縮尺あわせし、重ね合わせて作成した。


14世紀には中国・明との交易が本格化したというから、このころ「なは港」は開かれたのかも知れない。15世紀・1429年に、第一尚氏王統の琉球王国が成立した。その第5代の王が1449年に即位すると、明から冊封使(さっぽうし)を迎えるために那覇港を本格的に整備し、更に1kmに及ぶ「海の中道」・『長虹堤』を建設した。冊封使の、那覇の港から首里城への通行の便のためで、1451年のことである。上の図中では、明るい緑の線で示した。

長虹堤

江戸時代の末、葛飾北斎が「聞いた話」か「他人の絵」をもとに、『長虹堤』を浮世絵に描いた。琉球八景のうちの、『 長虹秋霽 』 だ。 【右図】
浮島の、那覇港から祟元寺前まで、長さは1kmにわたり、途中7ヶ所に海水を通じさせる部分があったそうだ。
いかにも王国の、都ならではの造作と思う。

遠景の山が富士山に似るのは、さすが北斎!







泉崎の石橋

【左図】 は葛飾北斎・琉球八景のうちの、『 泉崎夜月 』。泉崎は現在の県庁が建つ街区周辺。
長虹堤も泉崎の石橋の光景も、どこかで見たような・・・という気がするのは、(写真で見る)中国は杭州、西湖の白堤・断橋を彷彿とさせるからか? 白堤は、官職にあった白楽天が、「美女に限りなく金をつぎ込むように」して作ったとされる。由来、西湖は傾国の美人・西施にたとえられる
長虹堤も、王室が一大土木工事として、デザインにも施工にも、そうとう傾注して金かけて作ったのではないか。・・・その王の死後には、内乱が起こった。


波之上は那覇港のランドマーク

那覇の港が開かれたとき以来、「波之上」はそのランドマークであり続けているのではないか?
那覇の町の北端・・・昔は那覇の海の浮島の、北端・・・には、「波上宮」(なみのうえぐう) 【神社・寺院は『波之上』ではなく『波上』と書いて『なみのうえ』と読ませる】 という神社があって、なにやらゆかしげなところだ。30年前の3月初旬に初めて沖縄を訪れたとき、確かに波上宮に行き、海岸付近をうろついたはず。沖縄の冬は、寒くはないが、雲は多い。そのときも春先ではあったが鉛色の空と海だった。・・・海ばかり見ていて波上宮を振り返らなかったので気づかなかったのか???。今回は波上宮には行ったがビーチまで行かなかったので気づかなかったが ・ ・ ・。旅行のあとでwikipediaで発見した波上宮の崖の姿に、驚いてしまった。この姿は直に見たかった。

平清盛の時代にあっても「未だ本朝に従わぬ島」であったから、「ヤマト」には、各「国」に一ヶ所ずつ設定されていた、「一の宮」の制度は、沖縄地方にはなかった。今は、「全国一の宮会」から、沖縄の「一の宮」に「認定」されているそうだ。「ヤマト式」・・・「ヤマト」の神を祭る神社としては、県内随一の格式を持つ。
主祭神が女神・イザナミノミコトというのは少し変わっていると思う。男神・イザナギノミコトとセットでイザナミノミコトが祭られることは、よくある。また、イザナミノミコトが没したところ、または墓所、といわれる地では、イザナミノミコトが単独で祭られることは、ある。墓所でもないのにイザナミノミコトが単独で主祭神として祭られるのは、ほとんどないと思う。沖縄の、「認定一の宮」の主祭神としては、不思議な気がする。



長虹堤は、那覇の「陸化」に影響を与えたとされる。明治初年の地図では「浮島」はすでに本島に繋がっているほど陸化が進んでいたが、まだ海の部分も広くあった。明治以来干拓・開拓が急速に進み、現在の那覇の地形が形作られたようだ。


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FURUICHI, Makoto