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談話室  第34話 波之上から
2012/07/29


 

第32話 那覇は海から生まれた       第33話 都の香りする那覇       第34話 波之上から

 

第32話 那覇は海から生まれた の末尾で「波上宮」に触れ、女神・「イザナミノミコト」が単独で主祭神として祭られるのは不思議な気がする。」 と書いて、敬愛する先輩・渡辺仁さん(元社叢学会理事で、東北エミシの末裔?)にアドバイスを求めたところ、

(1)聞得大君・ノロの活躍など、女性優位の沖縄の宗教事情によって、女神である イザナミノミコト が主祭神となった。
   これに関連して、波之上は斎場御嶽(セイファーウタキ)=最上位の霊場=だった。
(2)イザナミノミコトを、イザナキノミコトと共にではなく単独でお祭りするのは、熊野信仰の特徴である。
(3)沖縄の熊野信仰は、補陀落渡海との関係がある。
とのご託宣・・・アドバイスをいただいた。

私は、例えば「熊野信仰」などといわれてもさっぱりわからないので、イチから調べることになった。

1.波之上は聞得大君も神事をする御嶽(ウタキ)だった
波之上の崖下には洞窟があって、「沖縄貝塚時代後期」の墓所だった(琉球新報2006/9/30)。それ以来、波之上は聖地であったようだ。
また1623年完成の『おもろさうし 第十』には、「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」との意味の歌が掲載されている(前出・琉球新報2006/9/30 及び wikipedia/波上宮)。
波之上は、ある時期、最上位の霊場=斎場御嶽(セイファーウタキ)=であったと考えられる。

2.イザナミノミコトを祭る、熊野信仰
渡辺仁さんからアドバイスをいただいてからの「にわか勉強」だが、わが国の神道は、まず、@ 自然信仰 があり、そこに北方系大陸渡来とも言われる、A 祖先信仰 が加わり、最後に、B 稲作の豊作祈願 が加わったもの、などとも言わる。
そして、日本神道の中心を担うのは、A の、祖先信仰の伊勢神宮・アマテラスオオミカミの系譜であり、それはイザナギノミコトから発している。一方その主流から追われてマイナーな地位にあるのがイザナミノミコトに発してスサノオノミコト、オオクニヌシノミコトの系譜であり、これは、@ 自然信仰 の傾向が色濃いと言われる。

京都の新熊野(いまくまの)神社のHPに、次のような系譜図がある。

   高天原を舞台とした神話の系列
    ↑
   (イザナギ系)イザナギノミコト − アマテラスオオミカミ − ニニギノミコト − 神武天皇
              |        |
   (イザナミ系)イザナミノミコト − スサノオノミコト − スセリヒメ
    |                             |
    |     オオモノヌシノカミ(三輪山の神)  −   オオクニヌシノミコト
    ↓
   出雲を舞台とした神話の系列

そして、『 つまり、日本人の持つ自然神信仰、その元を辿っていくと【 熊野信仰 】 に辿り着き、もう一つの信仰である祖先神信仰、その元を辿っていくと、【 伊勢信仰 】 に辿り着く。 』 と書いている。

熊野信仰はまさにこのイザナミノミコトを中心とする信仰である。
熊野三山の最も重要な主祭神は、
   熊野本宮大社=スサノオノミコト・・・本地仏:阿弥陀如来、
   熊野速玉大社=イザナギノミコト(とイザナミノミコト)・・・薬師如来、
   熊野那智大社=イザナミノミコト・・・千手観音菩薩
である。
イザナミノミコトは熊野信仰では、「熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)」と称され、熊野那智大社の主祭神である。「牟須美(むすび)」とは「生成・育成」を意味する古代語で「生す(むす)+秘(ぴ)」の二語が合成された言葉とされる。つまり、熊野牟須美大神とは、熊野に鎮座し、「誕生や死」といった、この世に存在するあらゆる生命の根源を司る神となる。熊野那智大社の主祭神が、このような性格を持つイザナミノミコトであることは、次章にからんで重要なことだ。

3.補陀落(ふだらく)渡海との関係性
阿弥陀如来の浄土を西方・極楽浄土と言い、薬師如来の浄土を東方・浄瑠璃浄土と言い、観音菩薩の浄土を南方・補陀落(補陀洛などいろんな書き方がある)浄土という。平安時代後期から浄土教が盛んになるなか、熊野の地は浄土と見なされるようになり、さらに観音の浄土への渡海・・・補陀落渡海も流行した。
補陀落渡海の名所は、先ずは和歌山県・熊野の那智、 補陀洛山寺 で、そのほか室戸岬、足摺岬からの渡海もあった。
初期のころは、船に2〜3ヶ月の食糧を積んで、観音浄土に至ることを本気で考えて、海にこぎ出したようだが、やがてこれは明確な「自殺」の行為=捨身行(しゃしんぎょう)=となり、船上に、外に出られぬ船室をしつらえ、そこに行者を押し込めて(?)、供の船が渡船を沖合へ引っ張っていき、うち捨ててくる、というようになったようだ。
ブームが去って後は、和歌山県那智の地域の話だが、亡くなった高位の僧職者の遺骸を船で沖に運んで水葬することをもって、補陀落渡海と言うようになったようだ。

ところで、今年のNHKの大河ドラマ。「平清盛」には孫にあたる、伊勢平氏直系の棟梁・平維盛も、補陀落渡海した。一ノ谷で義経に破れたあと、屋島で戦線を離脱し、熊野三山を巡ったあと、那智の浜から海に漕ぎだし、船上から海へと飛び込んだ、と平家物語にある。12世紀の末近くのできごとである。

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平家物語
さて三山の参詣事故なくとげられにければ、浜の南宮と申王子の御前より、一葉の船に棹さして、万里の沖へぞ浮ばれける、はるかに漕ぎ出で、山なりの島といふ島あり、かしこへ漕ぎよせて大なる松をけづりて、中将の名せきを書付らる、平家太政入道清盛法名浄海には孫、小松内大臣左大将重盛には嫡子、権亮三位中将維盛生年廿七歳、合戦の最中に讃岐の国屋島をいで、熊野の御山へ参詣せしめて、今生のたのしみさかえかたをならぶる人なし、後生ぜん所また権現の御ちかひたのみあり、元暦元年三月廿八日、那智の沖にして入水しをはんと書付給ひて、漕ぎ出で給ひぬ、・・・
・・・中将入道、・・・忽に妄念を飜して西に向ひて手を合せ、高声に念仏三百遍計り唱へすまして、海へ入給ひに けり

           維盛は一ノ谷の敗戦後、屋島の陣中から逃亡して熊野に渡り、熊野三山参詣後、浜の南宮から漕ぎ出して、沖の島に松の木を見つけ、幹を削って「清盛の孫、重盛の嫡子・維盛27歳、・・・那智の沖に入水し終わる」と書き付け、更に漕ぎ出て・・・念仏三百遍ばかり唱えて海に入った。   (この顛末は見届け人により遺族らに伝えられた。)


4.日秀上人
さて、ここに、由々しき情報がある。

多くの補陀落渡海の行者の中には、沖縄に生きて流れ着くものがあった。
16世紀に補陀落渡海を試みた日秀上人は、沖縄県金武村の海岸に漂着した。那智の浜を旅立ち1100キロ彼方の沖縄に辿り着いた時は、デイゴの花咲くこの地こそ「観音浄土」だと思った事だろう。その後、彼は当地に補陀落院観音寺を建立し、那覇市にある琉球八社の一つ、波上宮(なみのうえぐう)などを再興し、精力的に熊野信仰を広げた(和歌山県HP)。
日秀上人のほかにも、沖縄に漂着して沖縄の信仰文化の伝播に何らかの役割を果たした無名の僧たちがいたのではないかと思われる(琉球新報2006/9/30)。
・・・本当だろうか? 那智から太平洋に漕ぎだして沖縄に漂着する確率は、大変低いものと考える。

日秀上人は、真言の僧であった。那智から補陀落渡海を行じて沖縄・金武(きん)に漂着し、金峰山三所大権現と金峰山補陀落院観音寺を創建、また波上権現を再建し自ら阿弥陀・薬師・ 観音三尊像を刻んで安置し、十数年間沖縄に滞在したのち薩摩・大隅に移り、そこでも神社仏閣の創建・復興に尽くした。

琉球には臨済宗と真言宗の2派の仏教が伝えられ、殊に臨済宗が厚遇されたが、真言宗寺院にも王府から寺禄を給された八公寺が存在した。これら八公寺には神社が併置されていたが、これらの各社は俗に琉球八社と称された。琉球八社の首座を占めたのは波上宮であった(wikipedia

沖縄では王家が護持する8つの真言寺院があり、それぞれにヤマトの神を祭る神社を併設していた。その八社のうち七社までが熊野信仰の神社である。唯一の例外的存在となったのは、古代日本史上最強の武神・応神天皇を祭る、八幡宮である。日本の神ランキング によれば、全国の神社の主祭神としては、応神天皇が最も多いとのこと、八幡社が沖縄にあることは全く不思議ではないが、同HPでは第8位のイザナミノミコトが、8社中で7社を占めるのは、真言寺院と熊野社との尋常ならざる結びつきが想像される。
その明確な理由が、日秀上人が真言の僧で熊野信仰の持ち主であったこと、彼が彼の地で神社仏閣を開いたのだから、と結論付けられると思う。

日秀上人の前にも後にも、やはり補陀落渡海を試みて沖縄に漂着するものがあったかも知れないが、それはよほど幸運なケースで、それほど多くのものが漂着できたものではなかろう。ひょっとすると、日秀上人が唯一のケースだったかも知れないと思う。


5.終わりに
沖縄では、本土(ヤマト)のようには仏教は広がらなかったと思う。ヤマトで長く肉食を避けて来たのは仏教の影響と思うが、沖縄では古くから豚肉を食してきた。(中国・韓国でも肉食の長い伝統があるが、いずれも仏教国というよりは、儒教と道教の国と考えた方がよい)
沖縄は、もともと素朴な自然信仰と、一族の守護神としての祖霊信仰、そして豊作・豊漁・家内安全等を祈願する風土であり、体系化される前の日本の(ヤマトの)古い神道のスタイルを残しているように思う。NHKのテンペストで広く知られることになった聞得大君は卑弥呼を思い起こさせるし、ノロも古い日本の巫女神道を思い起こさせる。このような宗教風土のなかで、日本流の一般の仏教の受け入れられる余地がなかったと思う。

しかし15世紀になって、琉球王家は、京都から来た、禅の、臨済宗の僧「芥隠承琥(かいいんじょうこ)」に帰依し、彼が開いた首里の「円覚寺」を菩提寺にした。しかし臨済禅は、王家、貴族、高級官僚などの信仰にとどまったのではないか。

これに対して真言宗は、16世紀になって、日秀が漂着した金武(きん)に寺院が開かれたように、地方から信仰が広がり、やがて王家などにも広まり、そして臨済の禅をしのぐようになったと想像する。
これには、真言密が日本の仏教のなかで最も強く現世利益を説くことも影響していると思う。


別の話題で「沖縄」か「琉球」かの問題だが、第32話で「おきなは」の名は鑑真和尚の時代からあると書いた。少なくとも1300年前からヤマト・ウチナーともに使っていた地域名だ。本来は「沖ノ魚(取り・釣り)場」の意味と思うが後に「沖縄」の字が当てられるようになった。一方この沖縄地域が「琉球」と明示的に呼ばれるようになったのは約700年前・中国の「明」成立後、沖縄の王国が冊封体制下に入ったときである。明以前、今から1400年ほど前の「隋」の時代から、福建省の東海上に位置する島嶼として「流求」の認識があったが、これは台湾・沖縄などをひと括りにした名称だった。明との冊封関係を持ってから沖縄地方が明示的に「琉球」もしくは「大琉球」と呼ばれるようになった。後者の呼称に対して「小琉球」とは、面積では沖縄より遙かに大きい、台湾を指す。
このようなことで、「琉球」とは中国が名付けた名称であり、一時は沖縄の王家が自ら名乗った国名である。一方「沖縄」は、ヤマト人もウチナー人も、共通して称した、日本語での地域名といえる。
「日本」との対比で言えば、【中国からの呼び名】:琉球、 【日本としての呼び名】:日本沖縄 の関係、と書けば意味合いがわかりやいか。なお、日本は、「日本」と書いて当初は「ヤマト」と読み、やがて「ニッポン」と読むようになった。(「倭→日本」については、第25話 日本の国号 をご参照)
そこで本稿ではなるべく「沖縄」の地域名を使用し、「琉球」の名は自ら名乗った王家・王朝を指す場合等に限った。


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FURUICHI, Makoto