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モーツァルトのミサ曲 ハ長調 KV317 には、「戴冠ミサ」 もしくは 「戴冠式ミサ」 の添え名がある。日本語では2種類の添え名となっているが、もとはドイツ語の " Krönungsmesse " の邦訳が2つに分かれただけで、どちらの名で呼んでも同じ一つの曲である。しかし、もともとモーツァルトがこの " Krönungsmesse " の添え名を付けたわけではなく、誰言うとなしにこのように呼ばれるようになったものだ。 その代表的な論調が Wikipedia にある。 しかし結論として、このような「レーオポルト二世の戴冠式起源説」とこれに基づく 「戴冠式ミサ」 の添え名の使用は、ごく近年になって創出された物語と想像され、古くからこのミサ曲・KV317が 「戴冠ミサ」 と呼ばれてきたこととは無縁の説、こじつけ論と考えられる。 そして、「戴冠ミサ」 の添え名は、マリア・プライン巡礼教会にちなむものとしての伝説があってこそ現在まで伝えられたが、このミサ曲・KV317が「レーオポルト二世の戴冠式」 で演奏されたということは、「戴冠ミサ」 の添え名が現在まで伝えられたことに、幾分の貢献もしていないと考えられる。 先に結論を述べたあと、次にもう少し詳細に、「戴冠ミサ」もしくは 「戴冠式ミサ」 の添え名の発生事情を検討してみる。 「戴冠ミサ」もしくは 「戴冠式ミサ」 の添え名の発生事情【1】マリア・プライン巡礼教会起源説 ザルツブルク北郊にはマリア・プライン巡礼教会があって、その主祭壇には「奇跡の聖母子画像」がある。これは1618年から1648年まで戦われた、いわゆる「30年戦争」の激しい戦火にも焼かれることなくバイエルン地方に守り伝えられたことで、奇跡の聖母子像と呼ばれたもの。この聖母子画像がザルツブルクにもたらされると、トゥーン・グィトバルト大司教はこの地に教会の建設を命令した。これがマリア・プライン巡礼教会で、1652年のことである。 この聖母子の画像はザルツブルクの人たちの尊崇を集め、1744年には聖母と嬰児イエスキリストの頭上に宝冠が描き加えられた。これが奇跡の聖母子像の戴冠である。そして1751年の聖霊降臨の大祝日後の第5日曜日(1751年6月4日)には、ローマ教皇ベネディクトゥス14世により、その戴冠の儀式があらためて行われ、以後、毎年この日にミサが奉献されるしきたりになった。 その第28回目にあたる1779年6月の式典のためにモーツァルトがこのミサ曲を作曲し、実際にマリア・プライン巡礼教会で初演されたので、このミサ曲・ハ長調 KV317を「戴冠ミサ」と呼ぶようになった、というのが「マリア・プライン巡礼教会起源説」で、これまで長く広く信じられてきた。 これを補強する話として、モーツァルトの姉・ナンネルが、その日記・「ナンネルの日記」に、「この曲(KV317のこと)は、祭壇に戴冠された聖母マリア像が掲げられているザルツブルグの小さなマリア・プライン巡礼教会で演奏されたので『戴冠ミサ』と呼ばれるようになった」と書いている(参考1:http://www.geocities.jp/matukon_hp/kaisetu1.htm は削除されましたので、代替pdfを表示します)。 なお、同参考資料1はまた、『 この作品の表題には<del signor Amadeo Wolfgango Mozart,li 23 di marzo 1779>ー聖母マリア様に、1779年3月23日、モーツアルト捧げるー 』 と書かれているという。残念ながら私は外国語に弱いので、『 del signor 』 がほんとうに『 聖母マリア様に 』 と訳して問題ないのか自信がないので、参考に記載するに留めます。 しかし、上記の説に関しては、昔から研究者にはいろいろな疑問が持たれていたようだ。 <【1】の説への第1の疑問> モーツァルトがこの曲を1779年3月23日に書き上げたことは、自筆譜への本人の書き込みで疑いのないことで、一方この年のマリア・プライン巡礼教会の式典は6月20日か27日だった。あのモーツァルトが、初演の3ヶ月も前に楽曲を完成させておくとは信じられない、というのが第1の疑問。・・・モーツァルトは演奏の本番目前に仕上げることが常習的で、オペラ・「皇帝ティトの慈悲」などは、皇帝の御前演奏の日の、前日の完成だったと言われている。 <【1】の説への第2の疑問> 第2の疑問は、「戴冠ミサ」のオーケストラ編成は小さなマリア・プライン巡礼教会には大編成に過ぎる、また同教会で「戴冠ミサ」が初演されたという記録がない、というもの。 ・・・世の中一般には「マリア・プライン巡礼教会起源説」が広く信じられていたが、研究者の間には上記の疑問が深く沈殿していたようだ。 【2】皇帝の戴冠式起源説 先の(1)の<第1の疑問>としたこと・・・いつ初演されたか・・・については、1779年4月4日のザルツブルグ復活祭礼拝式であろう、との説が提起されている。同年3月23日完成の時期から推測すると、初演の14日前だから、モーツァルトとしてはちょうど良いころだろうとの考えである。この場合、<第2の疑問>・・・初演場の広さ・・・も同時に解決される。 このように「マリア・プライン巡礼教会起源説」を否定したところで提起されるのが、「レーオポルト二世皇帝の戴冠式起源説」である (レーオポルト二世以外の皇帝・王の戴冠式とする説もあるが、それらの代表としてここにひとまとめにしてしまう)。 1790年2月20日にヨーゼフ二世が没すると、その弟のレーオポルト二世が立つ。彼の神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式は、慣例に従ってフランクフルトの大聖堂で行われた。1790年10月9日のことである。しかしこのときは、この曲・KV317が演奏された記録はないようだ。ついで、1791年9月4日にプラハで、同皇帝のボヘミア王としての戴冠式が行われ、このときサリエリの指揮でこの曲が演奏された。そこからこの曲が「戴冠ミサ」もしくは「戴冠式ミサ」と呼ばれるようになった、とする説だ。 ネット上で「戴冠式ミサ」の解説を調べると、ほとんどこの説一色に染まっているようにみえる。 しかし、上記の説に関しては、次のような疑問がある。 <【2】の説への第1の疑問> 確かにこの戴冠式では宮廷楽長サリエリの指揮でモーツァルトのミサ曲3曲が演奏された。ただし、その戴冠式典の第1ミサはKV337であって、この曲・KV317はメインのミサ曲ではなかった(参考2)。 この戴冠式でのメインのミサ・KV337は、次のように演奏されたらしい。→ レオポルト2世戴冠式ミサ~音楽プログラムの復原@ハーゼルベック/ウィーン・アカデミーEns. ツィザーク(S)他 BREITKOPF 社刊の「戴冠ミサ」KV317の合唱譜には、1991年秋のはしがきとして、「公式記録としての「戴冠ミサ」の添え名の初出は、1823年1月(・・・モーツァルトの没後約30年・・・)だったが、それは「ハ長調ミサKV337」(現在では「ミサソレムニス」と呼ばれている)に対するものだった。公式記録上で「戴冠ミサ」がKV317の添え名となるのは、1873年(・・・モーツァルトの没後約80年・・・)のウイーン宮廷教会での演奏記録が最初のことになる、とある(参考3)。これは、「ウィーンでは」という注書きが必要かも知れない。 というのは、モーツァルト没後約70年に編まれたケッヘルの「モーツァルト全作品年代順主題目録」で、すでにKV317を戴冠ミサとしている。ただし、「『戴冠ミサ』の命名ががどこから来たのかを誰も知らない」、と記されているという(既出・参考1 の代替pdf)。その時既にマリアプライン教会の伝説があったが信憑性に疑問を持ってそう書いたか、またはその伝説がまだ広がっていなかったのかも知れない。しかし「皇帝の戴冠式由来」の伝説が存在しなかったことははっきりしていると思う。没後200年を経た今の時代でも、わずかな使用痕跡だけを根拠に「皇帝の戴冠式由来」説が唱えられるのに、この時代で、「『戴冠ミサ』の命名ががどこから来たのかを誰も知らない」というのは、ほんとうにそういう「皇帝の戴冠式由来」説が存在しなかったことを物語る。 <【2】の説への第2の疑問> 既述の「マリア・プライン巡礼教会起源説」を載せる「ナンネルの日記」は、彼女の結婚の1784年で終わっている(参考4)と考えるべきだとされている。 この年はモーツァルトは28歳で、KV317の作曲から5年後にあたる。したがって「マリア・プライン巡礼教会起源説」は、ザルツブルクではKV317作曲から数年のうちに発生し、それはレーオポルト二世皇帝の、「例の戴冠式」 の7年以上も前のことだった。 これは決定的な大問題である。 その「説」の、中身が正しいか間違っているかは別として、KV317は先ずマリア・プライン巡礼教会の戴冠マリア像(正しくは戴冠聖母子の絵像)と結びつけられたのだ。 のちに述べるように、KV317がレーオポルト二世の戴冠式に結びつけられたのは、モーツァルト没後200年を経た、1990年代になってからかも知れない。 モーツァルト自身がナンネルの日記の記述を知っていたか知らなかったかわからないが、私はモーツァルトはその記述あるいはその説を知っていながら、敢えて否定しなかったのではないか、そのような説を楽しんでいたのではないか、、、と思う。 <【2】の説への第3の疑問> レーオポルト二世皇帝のボヘミア王としての戴冠式でこの曲が演奏されたから「戴冠式ミサ」という添え名がついた、との説は、近年になるまでは存在しなかったか、少なくとも人々に信じられたことがなかった。ということは、この説は、近年になっての創作である疑いが強い。 三省堂・クラシック音楽作品名辞典は、1981年版まで「マリア・プライン巡礼教会起源説」を載せてきたが、1996年版になって「皇帝の戴冠式起源説」に改められた(参考5)。 私が持っている本では、1990年12月10日第1刷・「モーツァルト」吉田秀和著、講談社学術文庫 が「マリア・プライン巡礼教会起源説」を載せ(p-14)、1995年2月10日第1刷・「モーツァルト・ガイドブック」井上太郎著、ちくま新書 が「レーオポルト二世皇帝の戴冠式起源説」を採用(p-185) している。 合唱人には楽譜の影響も大きい。既出の、ドイツの名門楽譜出版社・BREITKOPF 社刊の合唱譜には1991年秋のはしがきとして、「・・・作曲時期と聖母マリアの祝賀の間の長い期間は、むしろミサKV317とマリアプライン教会には、どんな関係もありそうになく見えます。」と記載している。しかしその他の説として、「レーオポルト二世皇帝の戴冠式起源説」などを載せるようなことはしていない。むしろ、「・・・おそらく、『戴冠ミサ』の添え名に結びつけられるのは、明らかに戴冠式典を思わせるような最初のコーラスの祝祭的な雰囲気にあるのでしょう・・・」 と、大変節度ある、良識的な記載となっている。 2010年の現在から言えば、わずかに15~20年前くらいの間で「皇帝の戴冠式起源説」を支持する新たな証拠が発見されたとは考えられない。どう考えても「皇帝の戴冠式起源説」は「後世の創作」ではないかと思う。 【3】あらためての結論
上記のことから、この曲に対する「戴冠ミサ」の添え名は、作曲後5年を経ずしてザルツブルクで発生し、それから40~90年程度の間に、ようやくウィーンでも市民権を得たと考えるのが妥当ではないかと推察される。そしてウィーンから世界中にこの添え名が広まった、と考えられる。 そして、間違いないことでまた忘れてはならないことは、「マリア・プライン巡礼教会起源説」あったればこそ、KV317に対する「戴冠ミサ」の添え名が今に伝わることになった、ということであり、言い替えれば、みんなが「マリア・プライン巡礼教会起源説」を信じ、語り継いだからこそ、KV317は 「戴冠ミサ」 になったのだと思う。 【 付 録 】 1.「戴冠ミサ」か「戴冠式ミサ」か 「マリア・プライン巡礼教会起源説」に基づくなら、戴冠聖母子像の記念式典にちなむ、昔からの 「戴冠ミサ」である。 「レーオポルト二世皇帝の戴冠式」で演奏されたから「戴冠式ミサ」の名が良い、とする説は、古くから愛されてきた「戴冠ミサ」の添え名とは、似てはいるが別の添え名であり、新しい命名であることになる。古くから添えられてきた、 " Krönungsmesse " の添え名とは縁もゆかりもない、新作の添え名であることを認識しておく必要がある。また、この伝での命名で言うならば、古くから現在まで「荘厳ミサ」として愛されてきたミサ曲・KV337が「第一戴冠式ミサ曲」となり、本曲・KV317は「第二戴冠式ミサ曲」と呼ぶのが正しいことになる。しかしどうして新たに、・・・レーオポルト二世皇帝の戴冠式で演奏された・・・「第二戴冠式ミサ曲」と呼ばなければならないか、すでに古くから現在まで「戴冠ミサ」として変わらず愛されてきた添え名があるのに・・・ということになる。 結局、日本語で言うなら、この曲は 「戴冠ミサ」 と呼ぶのが正しい、というのが私の結論です。 2.マリアプライン巡礼教会では毎年8月15日に戴冠ミサを演奏する と、後藤真理子はその著書・ 『 図説モーツァルト~その生涯とミステリー 』 河出書房新社・ふくろうの本、2006年4月 に書いている。そのP-18(マリアプライン巡礼教会の説明)と、P-71(戴冠式ミサKV317 の説明)の2ヶ所にわたってだ。8月15日は聖母被昇天の祝祭日である。 ところが、2010年8月15日の同教会のミサ・プログラムには、戴冠ミサはなかった。あったのは「雀のミサ」KV220 だった(参考6)。 ・・・毎年ではなかったのかも知れない・・・8月15日の聖母被昇天の祝祭に戴冠ミサを演奏された年があったのだろう・・・と思っておこう。 3.WEB上の間違った記述 (1) レーオポルト二世の神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式で演奏されたから・・・ (2) フランクフルトでの戴冠式で演奏されたから・・・ (3) ウィーンでの戴冠式で演奏されたから・・・ ・・・神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式は、1790年、慣例通りにフランクフルトで挙行された。そのときにKV317が演奏された記録はない。しかし翌1971年にプラハで行われたボヘミア王としての戴冠式では、サリエリの指揮によりKV317も演奏された。ただしこのときのメインのミサ曲はKV337だった。 (4) アニュス・デイはにフィガロからの借用ではないかとも言われるメロディーがある ・・・制作年次から言えば、戴冠ミサのお気に入りのフレーズをフィガロで再利用した、という方が正しかろうが、もともと「借用」「再利用」などと言うのが間違っているのだろう。よく似たフレーズであることは間違いないが。 4.なぜサリエリが、レーオポルト二世の戴冠式でモーツァルトのミサ曲を指揮したか ヨーゼフ二世(1741/3/13-1790/2/20)は啓蒙専制君主の代表的人物で、その急進的改革ゆえに「民衆王」「皇帝革命家」などのあだ名があった。 音楽では、彼はドイツ語のオペラを創出した。それを担わされたのがモーツァルトである。モーツァルトはヨーゼフ二世の治世であったからこそ、ドイツ語オペラ・後宮からの誘拐、バスティアンとバスティエンヌ、劇場支配人、魔笛などのドイツ語オペラを制作し得た。 また、ヨーゼフ二世はサリエリも、これはモーツァルト以上に重用した。 ところがヨーゼフ二世の後をついだ弟のレーオポルト二世は、兄の強引な改革によって引き起こされた混乱を収めるために徹底的な反動政策をとり、ヨーゼフ二世色を一掃しようとした。そこでワリを喰ったのがモーツァルトとサリエリである。モーツァルトはレーオポルト二世のフランクフルトでの神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式に招かれることはなく、プラハでのボヘミア王としての戴冠式でわずかに祝祭オペラ・「皇帝ティトの慈悲」を御前演奏した。ただしその作曲依頼はハプスブルクの帝室からではなく、プラハの「ボヘミア職能組合」からだった。 サリエリは、レーオポルト二世の治世となって作曲の筆を折ってしまった。その治世では、宮廷楽長としての業務を行うのみとなった。彼はモーツァルトの音楽を高く評価していた。そこで、プラハでの戴冠式で、モーツァルトのミサ曲を3曲選んで、あくまでも宮廷楽長の職務として演奏の指揮を取ったものと思われる。 |
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5.モーツァルトと戴冠ミサに関する年譜
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