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古市の虹の書斎  伊勢の 『 古市 』

Index
T.河内から始まる、古市の系譜
U.伊勢の 『 古市 』。奈良から広がる 『 古市 』 。
   1.伊勢の 『 古市 』
   
2.鈴鹿の 『 古市 』
   3.奈良に興る 『 古市 』
   4.九州に転じた茶の湯の 『 古市 』
V.とりあえずのまとめ
V.研究ノート
X .古市 Forum

2.鈴鹿の 『 古市 』
 (1).源平争乱の物語に登場する、古市の武者たち
 平安末期の争乱を綴った物語に、保元物語、平治物語、源平盛衰記がある。ここに伊勢の古市が登場する。これは今は鈴鹿市の白子(しろこ)の地の古市だ。

( i ) 保元物語
 1156年7月に起こった保元の乱は、崇徳上皇をかついで左大臣・藤原頼長が起こした乱。受けて立つのは後白河天皇と関白・藤原忠道。この乱は天皇家の中と藤原摂関家の中の、それぞれの 『 氏の長者 』 争い=一族の中でのいわば『代表権』を争った闘争=だった。源氏・平家の武将たちは上皇側・天皇側に親子・兄弟・叔父甥が別れ々々に参陣し、戦うことになった。

 上皇方に弱冠18歳ながら強弓を引いて名人、軍略もある為朝がある。彼は夜襲を献策するが頼長は正々堂々と戦うべきだと退ける。この素人の兵法が死を招く。夜襲を掛けたのは天皇方だった。献策したのは総大将・源義朝。
 天皇方には伊勢平氏の棟梁・平清盛がいる。上皇方が籠もる白川殿の西門に攻め寄せ、「 安芸守清盛なり 」 と名乗りを上げると、門の内からは 「 鎮西八郎為朝なり 」 と応じる。これを聞いた清盛はギョッとして足がすくむ。・・・相手が悪い・・・。この清盛の窮地を救うために飛び出した郎党が大音声を上げる。 「 伊勢の国の住人、古市の伊藤武者景綱、その子五郎忠清、同じく六郎忠直が今日の一番乗りだ 」

 為朝の放った一矢は忠直の鎧と胸板を貫いた上に、忠清の鎧の袖も射抜いてしまう。忠直はもちろん即死だ。清盛はいよいよ前進する意欲が萎えてしまう。
 朝四時頃に始まったこの戦いは為朝の奮戦があってなかなか勝敗が決しない。しかし八時頃に天皇方が焼き討ちを掛けるに至って勝敗は一挙に決まった。天皇方の勝利である。
 この戦いで勝利を収めた天皇方の総大将は源義朝だったが、父・兄弟が上皇方について悉く処罰されたことから、源氏の実力は低下した。その点平家の方は失うものが比較的少なかった。

( ii ) 平治物語
 それから3年、1159年の12月、平清盛は嫡子・重盛を連れて熊野参詣に京都を発った。この隙に 兵を挙げたのが源義朝。平治の乱である。しかしこの乱の根本はやはり藤原家の中の勢力争いだ。首謀者は藤原信頼。後白川上皇とその子・二条天皇を御所の内に確保し、主導権を握る。
 義朝の嫡子・義平は 「 大阪の阿倍野で待ち伏せて、丸腰で熊野から帰ってくる清盛を討ち果たそう 」 と献策するが、信頼は 「 京都に引き入れてからやっつけよう 」 と言い、義平の策を採用しない。またしても素人兵法が死を招く。

 清盛は急を聞いて京都に引き返そうと道を急ぐが、阿倍野に兵の姿があるという。しかしこれは源義平の伏兵ではなく、清盛を助勢しようと駆けつけた伊勢の国の伊藤の侍三百余騎だった
 清盛が京都の六波羅に生還して形勢は逆転する。やがて公卿の手引きで後白川上皇と二条天皇は御所から脱出し、上皇は仁和寺に、天皇は六波羅に入る。これで清盛が恐れた『 朝敵の汚名を着る 』 恐れはなくなった。清盛方の大勝利だ。
 このあと源氏の残党狩りがおこなわれたが、義朝の何人かの子らは命を救われた。牛若ら義朝の3人の遺児を連れた常盤御前は、伊勢守景綱を通じて清盛に自首したという。

( iii ) 源平盛衰記
 ・・・ しかし清盛が義朝の子らにかけた情けによって、やがて平家の清盛一統は滅ぶことになる。これを物語るのがみなさんご存じの源平盛衰記。ここでは伊勢平氏の武士団として 『 古市の白子党 』 が登場する。宇治橋での平家方の敗戦記では、古市の白子党の武人として、黒田の後平四郎、日野十郎、乙部の彌七らの名が登場する。

 (2).伊勢の中心・鈴鹿の地
 伊勢の国と言えば伊勢神宮がある 『 度会( わたらい ) 』 もしくは 『 宇治山田 』( 宇治は内宮の、山田は外宮の所在地 ) と思われがちだが、じつは古来、伊勢の国の中心は現在の鈴鹿市周辺だった。
 伊勢の国府、国分寺等、すべてこの地にある。国府があった周辺からは大量の遺物が出土しており、要衝・鈴鹿関に関連した大軍団が古くからこの地に存在したものと考えられている。

 鈴鹿の山ふところにある伊勢の国の一の宮・椿大神社は天孫(天照大神の孫)ニニギノミコトの降臨を先導した猿田彦大神の墓所といわれる。この地こそ、後に天照大神が大和の国から伊勢の度会の宇治に引っ越されるまでは、名実ともに伊勢の中心地だった。

 天照大神は第11代垂仁天皇のときまで大和の国の皇居の中に祭られていたが、どうやら大和の地主神である三輪の神との折り合いが悪かったらしく、その天皇の代に倭姫命が天照大御神の鎮座の地を求める旅に出た。その旅は大和から伊賀、近江、美濃を巡ったのだが天照大御神は稲作と不可分の神様で、この地で4年稲を作ってみてはデキが悪いと次の地を探す。また次の地では潅漑の樋まで建設した上で稲を作ってみる、との有様であったので、途方もない長旅となった。
 倭姫命の一行はついに伊勢の国に行き着き、そのとき猿田彦の大神の推薦があって今の伊勢神宮の地に鎮座することになった。伊勢の国は稲が良くできるほか海産も豊富であったので、大御神はいたくこの地が気に入られたようだ・・・

 このことからも先ず鈴鹿を中心とした豊かな伊勢の国があり、相当後になって伊勢市の地に神宮が営まれたことがわかる。・・・ 少なくも伊勢神宮造営までは、伊勢といえば鈴鹿市周辺を指したものであろう。今でこそ、この地域、北勢地方といわれてしまうのだが ・・・。

 (3).鈴鹿の古市の地名考
 さてこの鈴鹿市の海岸地帯、現在の白子、寺家と呼ばれる町周辺が平安時代まで古市とも呼ばれていた地域だ。しかし現在の鈴鹿市白子周辺には 「 古市 」 の地名の遺称地は残っていない。源平盛衰記が書物に古市の名を残す最後のようだ。

 「 白子にはもと市場があったから古市とも呼ばれた 」 と伝えられているが、ほんとうだろうか?

 白子は天然の良港を抱えた町で、江戸時代まで商港の町として栄える。伊勢の度会の宇治の地に、伊勢国中心地の名こそ譲っても、実の方では江戸時代でも鈴鹿の白子が伊勢国の中心地であったと思う。
 従ってこの地に古くから市があったことは想像できるが、それが一時期でも寂れて他の地に新しい市ができたとも考えがたい。『 平安時代になって白子以外の別の町に新しく市ができたので、白子の市が古市と呼ばれるようになった 』 とは信じられないのだ。・・・古くから市があっただけでは古市という地名にはならないだろう。
 大和朝廷時代の壬申の乱で大海人皇子が通過したのはやや内陸部の町であった。それらの町に比べれば海岸の自然堤防上にできた白子の町は、伊勢平氏の勃興と軌を一にした、当時としては新出来の町であるはずで、今市と呼ばれることこそふさわしいはずだ。

 次にこの源平時代の古市は現在の白子の町だけでなく、隣接する寺家などの町も含めた、広い範囲の地名のようだ。別に新しい市ができたために古市と呼ばれるには、もう少しピンポイント的な地域=市が立つポイント=であるべきだと思う。
 史書では 「 古市の白子 」 であって、「 白子の古市 」 ではないのだ。例えば 「 伊勢の度会の宇治 」 とくれば 伊勢>度会>宇治 という広さの関係は自明のことだ。

 ここで大胆な想像をすると、伊勢の鈴鹿のうちに古市の姓 ( かばね ) の者が広がり住んだ、その中での白子の町の一党、という意味で 「 古市の白子党 」 と呼ぶことがあるかも知れない。
 源の足利党、平の三浦党、藤原の三条家。・・・ もし彼らがそれほどメジャーな存在でなく、何らかの形容詞がないと理解されにくいとすれば、真っ先に 「 姓 ( かばね ) 」 で修飾されただろう。

 もう一つ考えることは、「 古市の白子党 」 というのは、古市の姓の者たちが住み広がった中で、白子の平家軍団と主従関係または盟友関係を結んだ一党、だったのかも知れない。彼らは平家と血縁関係も深めただろう。


 半島渡来の 『 河内の古市の姓 』 の者たちは、先ず飛鳥と難波の港を結ぶ大和川沿いの水陸交通の要所を占めて活躍し、次に都が奈良に移るとそこと難波を結ぶ淀川沿いの地に進出した。近江の古市は今の大津市の中心部で、琵琶湖の湖上交通の要衝だ。
 ここ、鈴鹿の白子の地は良港を持つとともに、北の方、鈴鹿峠を越えると近江〜京、西に加太峠を越えれば伊賀〜大和。東は尾張・美濃に続く道、南へ下れば参宮街道という要衝の地だ。古代の壬申の乱の時には、大海の皇子についた古市黒麻呂もこの地を通って尾張に至った。
 黒麻呂のルートに従って、近江から鈴鹿峠を越えた古市の姓の一団が伊勢の国の水陸交通の要衝・鈴鹿の白子周辺で商いを始めていたとしても不思議ではない。

 (4).鈴鹿の白子 余話
 源平の代からさかのぼるが、この地は日本武尊 ( やまとたけるのみこと ) とも縁が深い。その愛妻・弟橘媛 ( おとたちばなひめ ) はこの地の出身。経済的に豊かな地であったことが想像される。
 また日本武尊が伊吹山の神と争って病を得、くたくたに疲れて足が三重に折れて歩けなくなったことから 「 三重 」 の地名ができた。亀山市の能褒野 ( のぼの ) に至ってついに亡くなられ、近くに陵を造った。すると尊は一羽の白鳥となって大和を指して飛び出し、奈良県御所市の琴弾原に留まった。そこでその地にも陵を造ると再び白鳥となって飛び立ち、大阪府羽曳野市の古市に舞い降りたのでその地にも陵を造った。その後白鳥は三たび飛び立ち、天高く飛び去ったという。こうして日本武尊の白鳥陵と呼ばれるものは3ヶ所にあるのだが、最初の白鳥陵は鈴鹿市の加佐登神社である。

 今度は時代が下って本能寺の変の直後。
 この時に堺に遊んでいた徳川家康は大急ぎで伊賀を越えたあと、白子の浜から伊勢湾に船を漕ぎだし、無事三河に帰り着くことができた。
 このとき家康の危機を救った白子の小川某は、そのあと白子に戻るのは危険だと駿河に留め置かれ、そこで土地をもらって住みついた。
 後に天下が徳川家康のものとなると彼はそのときの恩を忘れず、この地を紀州徳川家領とし、白子の港には特別の港として保護と恩恵を与えたので、伊勢の国の産物はことごとく白子に集まったのち江戸へと運ばれることになった。それで白子は大繁栄時代を迎えることになった。


 この稿は2001年8月に作成し、2002年1月に大改訂したもの。旧稿では現在の三重県内の古市さんの住所調べをしているのでその部分を残しておきます。


 静岡県浜松市の 「 日本ソフト販売(株) 」 が出している 「 写録宝夢巣(シャーロック・ホームズ)Ver.5 」 は全国のハローページ・個人の電話をデータベース化したもので、例えば全国の古市さんを都道府県単位や市町村単位で集計することができる。もちろんこれは電話帳上での登録数だけであり、収録数は約3千万件だから、日本の人口を荒っぽく1億2千万人とすると、集計した電話登録数を4倍すれば、その苗字を名乗る人口が推定できる。
 この方法で三重県の 『 古市さん人口 』 を市町村単位でを見ると、次のようになる。

第1位
 四日市市 約 616人
第2位
 鈴鹿市 約 540人
第3位
 安芸郡河芸町約 252人
第4位
 津市約 116人
第5位
 安芸郡芸濃町約 112人
第5位
 松坂市 112人
    
第?位
 伊勢市約 24人
 伊勢の国の度会の・・・伊勢市 に比べ、伊勢の国の鈴鹿の・・・四日市市・鈴鹿市などに、圧倒的にたくさんの古市さんが住んでいることがわかる。


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鈴鹿の白子、「古市の白子党」については 絵馬 の作者氏に多くのお教えをいただきました。

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FURUICHI, Makoto   2001/08/05 - 2002/01/03