「 古市の系譜 」 といっても、 自分のルーツを探そうというわけではない。 ただ、 「 古市 」 を名乗る氏族がかつて関西に栄えたことがあるということを最近知った。 そういえば大阪府羽曳野市には 「 古市 」 という町があって、 古墳群で有名だったと気が付き、 調べてみるとこの町から最初の 「 古市 」 の名が始まったのだった。 そこで、 これは 「 同名のよしみ 」 程度の思いから、 まず 「 河内の古市という町 」 と、 そこに始まった 「 河内の古市氏 」 について調べただけを紹介してみようと思う。 ここで紹介することはいろんな書物を見てのことでなので、 本来ならすべて 「 これは ・ ・ ・ なのだそうだ 」 などと書くべきところ、 やってみるとあまりに文章が冗長になってしまうので、 全部 「 だ ・ である 」 調の断定形とした。 しかし掲載した記事は、 すべて他の人の研究成果の引用であることをあらかじめご了承いただきたい。
(1). 河内の 『 古市 』 大阪府羽曳野市に近鉄電車の 『 古市 』 という駅がある。 この地、 羽曳野市の東半分は、 律令時代に 『 河内国古市郡 』 と名付けられたのだが、それよりももっと以前から 「 古市村 」 と呼ばれたところだ。 河内国古市郡は、 旧市、故市 ( いずれも 『 ふるいち 』 と読む ) などと書かれることもあった。 郡内には古市郷など4つの郷があった。 栃木県には 「 今市 」 がある。 古市の 「 古 」 とは近くに新しくできた市場町 「 今市 」 に対して比較する言葉として使われているのだろうか? それとも 「 かつては市があったが今は寂れてしまった町 」 という意味なのだろうか? = ひょっとしたら、最初から 『 古市 』 ではなかったか = これが私の最初の素朴な疑問。 (2). 記紀に登場する河内の古市の地 第12代 ・ 景行天皇の皇子、 小碓命 (おうすのみこと) は西征東伐したのち伊吹山で病を得て、 伊勢の国に至って足は三重に曲がったのでここを三重村と名付け、 さらに能褒野 (のぼの) の地に至って薨去された。 そこで陵を築いて皆が嘆き悲しむと、 ミコトは一羽の白鳥と化して飛び立ち、 皆で追っていくとついに河内の旧市邑 (ふるいちのむら) に留まった。 そこでその地に白鳥陵を築いた。 日本武尊(倭建命) (やまとたけるのみこと) の物語である。 そしてこの物語は私の出身地 ・ 三重の地と河内の古市を結びつけるものでもある。 第21代 ・ 雄略天皇の時代には、 ある夜、 古市の地に嫁いだ娘を訪ねた男が、 帰りに誉田陵 (こんだりょう・河内の古市にある、応神天皇を祭る巨大古墳) の下を通ると、 赤い駿馬に乗った人に出会った。 まるで龍のようなすばらしい馬だったので自分の馬と換えてもらいたいと思うと、 その人は彼の願いを聞き入れてくれた。 この夜は自宅に帰り着いて秣を与えて寝たが、 翌朝見ると、 赤い埴輪の馬に変じていた。 不思議に思って誉田陵まで行ってみると、 自分の馬が埴輪の馬にまじって立っていたので、 埴輪の馬と取り替えて引いて帰った、 という事件が報告されている。 (3). 4世紀後半の河内の国 第15代 ・ 応神天皇が統治したとされる4世紀後半のころ、 河内の国は現在の大阪府に兵庫県南東部を合わせた範囲 − つまり摂河泉の3ヶ国分 − で、 大国だった。 そこから和泉の国、 摂津の国を分立させて、 以後の河内の国の領域が定まるのは、 8世紀中頃以降のことになる。 だから、 これから述べる河内の国とは、 平安期以降の河内の国ではなく、 和泉 ・ 摂津の国を含めた、 いわば 『 大河内国 』 のことである。 このころ、現在の大阪城の位置から東を眺めると、 青々とした湖が生駒山麓まで広がり、 その湖 − 河内湖 − に、 北東からは淀川が、 南東からは幾筋にも分かれた大和川が、 大量の水を流し込み、 あふれそうなその湖水は、 北側の坂下から細長くのびる砂嘴の先端が作る狭い水道を、 急流となって大阪湾に流れ込んでいたはずだ。 九州生まれの応神天皇は、 畿内勢力の抵抗を受けながらも大和の国に入って王権を樹立し、 難波の大隅の宮を営んだとされる。 その地は現在の大阪市東淀川区大隅〜大道南の周辺らしい。 応神天皇は 「 実は九州から畿内に攻め上って朝廷を開いた騎馬民族の天皇だった 」 とか、 その過程で 「 大和盆地の土豪勢力に対抗する、 河内王国を作った 」 とする説もある。 大阪平野 − 当時は河内湖に面する地域 − 特に大和川流域は、 相当頻繁に水害に遭ったようだ。 応神天皇の次の仁徳天皇は、 今の大阪城に近くに高津の宮を営んで河内の国の経営に尽くし、 河内湖の水を放流させる堀割 − 今の大川 − を開いた。 また、 淀川水系の洪水を防ぐために茨田の堤を築いた。 こうしてわが国の中枢部のうちで、 東といえば大和の国を、 西といえば河内の国を指すまでに 「 大 河内国 」 は育っていった。 (4). 難波の津 = 古代の大阪国際港 = から古市への道 このころまでに、今の大阪城の西の坂下に、 難波の津 (なにわのつ) と呼ばれる国際港が開かれていた。 そして応神朝以降、 朝鮮半島との文物の行き来 − というより一方的な輸入だったか − がとみに盛んになった。 文物ばかりではなく、それを携えた 『 人 』 もやってきた。 第16代 ・ 仁徳天皇の世には、 難波の都 ・ 高津の宮からまっすぐ南に、 現在の羽曳野市の西部 ・ 丹比に下る大道が造られたという記事が日本書紀にある。 このときには、 ここから東の大和に向かう古道があったのだ。 これはおそらく推古朝にわが国最初の官道として整備される竹内街道のことで、 古市の地で石川を渡っていたはずだ。 しかしこのころ、 海を渡って難波の津に着いた半島からの文物の多くは、 一旦川船に積み替えられて河内湖を渡り、 大和川を遡って、 当時の河内の中心部であったと思われる 『 南河内 』 の地で陸揚げされることが多かったろう。 ここから例の古道を経て、 大和の国に向かっただろう。 南河内から大和川をそのまま遡っても大和の国に行き着くが、 途中に亀の瀬という河川交通上の難所があるからだ。 その 『 南河内 』 こそ志紀・古市 − 今の藤井寺 ・ 羽曳野 − の地だった。 そしてその古市には、 古代に人工の水路があったことがわかり、 今では 『 古市大溝 』 と名付けられている。 この大溝は水上交通と潅漑の両方の目的で構築された。 古市の地は竹内街道が 『 石川 』 を渡河する地点にあたり、 難波の津と大和を結ぶ交通の要衝であったことは間違いない。 (5). 古市に築かれた巨大古墳 応神天皇陵は古市の誉田山 (こんだやま) 古墳とされている。 これは巨大古墳である。 この次の仁徳天皇の陵とされる大山古墳は面積で世界最大とされるが、 誉田山古墳は墳丘の体積と表面積ではこれを凌ぐものだ。 このころの巨大古墳は石で葺かれ、草木1本も無いようにされたというから、 白い葺き石と赤い埴輪が輝く巨大な人工の山が、 難波の津から大和に向かう人の目を驚かしたろう。 この誉田山古墳はちょうどその経路上にあるのだ。 現在ではこのころの巨大古墳は、 朝鮮半島からやってくる使節らに、 大和政権の力を示すために築造されたのだろうと考えられているようだ。 ただし、 古市の地はもともと古墳がたくさんあった所だ。 応神天皇より前の時代の、 日本武尊 (やまとたけるのみこと) の白鳥陵とされる古墳もある。 そして応神天皇以後の陵もつくられた。 これらは古市古墳群と呼ばれ、 仁徳天皇陵を中心とする堺市の百舌鳥 (もず) 古墳群と並んで、 わが国の二大古墳地域である。 特に巨大古墳といわれるものは、 この2地域以外にはない。 なお、 応神天皇は誉田天皇 (ほむたのすめらみこと) と名乗られていたことから、 その陵の 「 誉田 」 も、 もともとは 「 ほむた 」 か 「 ほんだ 」 と読むのが正しいのだが、 訛って 「 こんだ 」 と読まれている。 この地は帰化人が多いところなので、 「 ほんだ 」 と発音できない、 あるいは 「 こんだ 」 と読むのが当たり前という人が多く住んでいたのではないか、 というのは私の当てずっぽうの推量。 そういえば余談にそれるが、 誉田を 「 ほんだ 」 と読んだり 「 こんだ 」 と読んだりする、 千葉県の 「 こんな 」 話 もある。