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古市の虹の書斎  奈良に興る 『 古市 』

Index
T.河内から始まる、古市の系譜
U.伊勢の 『 古市 』。奈良から広がる 『 古市 』 。
   1.伊勢の 『 古市 』
   2.鈴鹿の 『 古市 』
   3.奈良に興る 『 古市 』
   4.九州に転じた茶の湯の 『 古市 』
V.とりあえずのまとめ
V.研究ノート
X .古市 Forum

1.奈良の 『 古市 』
(1).京都新聞が伝えた奈良の豪族 『 古市氏 』
 神戸市の S.古市さんは、ある地球科学・地下探査に関する理工学系の学会で知り合った方で、同姓だが親類縁者というわけではない。その S さんが 1998 年の秋、大事に保存されていた10年前の京都新聞の記事を送ってくださった。それは中世の奈良の豪族 『 古市氏 』 の城館跡の発掘調査を報じたものだった。
 平成元年3月10日付けのその記事は写真付きで字数も1000字を越えるが、大意は次の通りであった。
京都府田辺町普賢寺にある、近世〜中世の山城跡と推定される 『 小田垣内遺跡 』 を発掘調査したところ、その下から14世紀〜16世紀初めごろの墓地と城館跡が出てきた。このため 『 小田垣内遺跡 』 は、その築城期が山城国一揆の最終期と重なることから、明応二年(1493)に奈良の豪族・古市氏がこの地にやってきて一揆を終息させた歴史と関係がある城址跡と考えられる。
 というのも、奈良の豪族・古市氏は、各地に進出しては古い墓跡を埋め、土塁を作って小城を築いていたことがわかっており、同じ ”手口” の築城であることから関連づけられた。
 ”手口” などと書かれる築城法をみるとどうも野蛮な感じがするのだが、実はこの古市氏、そうとうの文化人であった。

(2).奈良の古市氏の来歴
 奈良市の南の方に興福寺大乗院の荘園・福島ノ市があったが、この市場が1302年にもう少し奈良の町に寄ったところ ( 現・紀寺町 ) に移された。それで元の福島ノ市を古市と呼ぶようになったと伝えられている。そしてこの古市の顔役となった大乗院の宗徒が次第に勢力を得て古市城を築き、奈良の豪族・古市氏となり、その出自はもとは清原姓で、舎人親王の末裔と伝えられる。

 こうしてみると、奈良の古市氏は 『 河内起源の古市の系譜 』 とは全く別系統の氏族と思えるのだが、一方では自ら 「 河内の古市の出である 」 と自称したとも伝えられる。そしてまた、河内との関係があることを推測させる事実もあるのだ。

(3).武門の家・古市氏
 奈良の古市氏は古市但馬古市丹後胤栄と続き、次の古市播磨胤仙のとき、1445〜6年にかけて南大和の筒井氏と合戦して大いに痛手を与えた。戦国時代は1467年の応仁の乱に始まるが、そのきっかけに畠山家の家督争いがあった。古市胤仙は幕府の教書を受けてこれに参戦し、応仁の乱が始まってからは大和・河内・山城を転戦して武功をあげ、古市氏の勢力を大きく伸張させた。ここで但馬、丹後、播磨などというのは正式な受領名ではなく、勝手に名乗って通称となったものだ。

 1453年に胤仙が死ぬと長男の古市丹後胤栄 ( たねひで ) が当主となる。彼にとっての祖父と同名である。しかし彼の時代には目立った戦果はないまま1475年に隠居すると、次に弟の古市播磨澄胤 ( すみたね ) が立つ。この澄胤の時代に奈良の古市氏は最盛期を迎える。

(4).古市澄胤の活躍
 古市澄胤は戦国初期を畠山義就方につき、畠山政長方の筒井氏としばしば戦ってこれを圧倒し、ついには筒井氏に替わって興福寺の衆徒の棟梁となった。そして大和の国の半分を支配するに至る。1493年には山城の国の守護代となり、冒頭の記事のように南山城に出兵して国一揆を鎮圧・解体させ、1497年には 河内の 『 古市 』 の地を攻め占領した ( 『 T−2 河内の古市氏 』 ご参照 ) という年代順となる。
 ところが注目すべきことに、1493年9月の、山城国一揆鎮圧の最終局面では、
古市澄胤の陣に河内誉田氏の軍勢50人が参陣している。このへんが奈良の古市氏が、意外に古いところで河内の古市氏とつながっているのではないかと疑われるところだ。「 奈良の古市氏は清原姓で舎人親王の末裔・・・ 」 というが、武家の由緒は自分の都合で変転されることはよくあることだ。
 1508年に澄胤が敗軍の中で自害し果てると、武門の古市家はその後二度と勢いを盛り返すことはなかった。

(5).古市澄胤の悪名
 古市澄胤は一揆と関係が深いようだ。そしてこの方面では澄胤の名は悪名として通っている。
 民衆をそそのかして金貸しの酒屋や土倉に借金の帳消しを求める一揆を起こさせ、そのあと土倉側に交渉して一揆を鎮圧してやるから金を出せと取り引きする。こういうマッチポンプで巨利を得たという。なかには取引に応じない土倉に対しては、勝手に民衆側に 「 徳政 」 を約束しておいて土倉側の出金を求めるといったことまでしている。「 私のおごりで、あなたの払い 」 という感じ。
 しかし澄胤のこのような一面は、経済観念の発達、民衆の状況の把握など、領土取り一辺倒の大名とはひと味違ったものを持っていたことを示すものだろう。

(6).古市澄胤の風流と茶
 奈良の古市氏の最盛期を築いた、父・古市胤仙、兄・胤栄、そして弟・澄胤は、大和を代表する棟梁的な地位を保ちながら、また一方では風流武将として知られた。なかでも著名なのは古市澄胤(1452−1508)である。澄胤はもともと父・兄の代からの庶民の茶 「 寄合の茶 」 を楽しむ環境下に育ったが、村田珠光に出会い、その指導を受けて 「 詫び茶 」 の世界に通達した。
 澄胤はまた和歌連歌、猿楽、尺八、謡の名手でもあった。

( 村田珠光 )
 茶聖・千利休(1522−1591)が賞揚して一躍名を上げたのが奈良・称名寺の村田珠光(1423−1502)である。この二人は生きた年代が違うから当然面識はない。利休は珠光が選び集めた名物道具を見て珠光の茶の本質を知ったのだ。
 珠光が生きた時代、一般に茶といえば 「 寄り合いの茶 」 だった。茶を契機に人が集まり、明るい茶を楽しんだものだった。しかし東山文化を花開かせた足利将軍・義政には唐物荘厳の 「 書院の茶 」 があった。これが義政の同朋衆・能阿称を通じて珠光に伝えられた。また珠光は19歳の時に田辺町の一休禅師の門に入り印可を受けるまでになる。そこで後に詫び茶の祖とされる珠光の茶が開眼する。

( 珠光と澄胤 心の文 )
 珠光が47歳で奈良に帰るとやがて古市澄胤が師事するようになる。
 そのころ澄胤は圓城坊と号し、 「 淋間茶会 」 という独特の 「 寄り合いの茶 」 を楽しんでいた。これは先ず風呂に入ってから酒を飲み、果物・そうめんで空腹を癒したあと茶を楽しむ、というもので、風呂から茶席まで、花瓶・花、絵屏風などで飾られていた。150人で茶会を催した記事も残る。まことにエネルギッシュな庶民の茶であった。

 この澄胤が珠光の一の弟子となる。ここで道具のほかに珠光が残した貴重な手紙−心の文−と呼ばれる遺文がある。これは 「 古市播磨法師、珠光 」 という宛先・送り人の記述で始まり、 「 此道わろき事は・・・、此道の一大事は・・・ 」 と詫び茶の根本を述べ、最後に 「心の師とハなれ、心を師とせざれ、と古人もいわれし也 」 と結ばれている格調高いものである。珠光はその名物道具とともに、この 「 心の文 」 によって利休とその弟子たちの尊崇を得ることとなった。

 このほか、「 お尋ねの文 」 というのもある。これは茶花についての澄胤の質問に、珠光が答えて与えたものだ。二人の密接な師弟関係が偲ばれる。山上宗二はその 『 山上宗二記 』 の中で、「 和州南都古市播州ハ珠光一ノ弟子也、数寄者名人ナリ 」 と書いている。

(7).澄胤以後
 古市播磨澄胤の直系は、のち代々播磨を名乗り、 「 古市播磨律師 」 などと呼ばれるものもあった。また一族の多くが興福寺の小院に入り、六方衆と呼ばれる僧兵になるものも多かったという。ここからは推測だが、各地で茶をもって大名に召し抱えられる奈良の古市氏の末裔もあったのではないかと
想像 する。

 風流武将・古市播磨守澄胤の茶の湯はその子孫に伝えられ、利庵、紹意(圓乗)、了和(圓覚)、宗也と相伝されていく。澄胤自信が 「 圓城坊 」 と号したものであるから、 「 圓 」 の字は一族のうち仏門に入ったものによく使われたと思われる。

 古市胤子(1583−1658)は澄胤より4世代ほども後との計算になるが、三位の局と呼ばれ、15代将軍・足利義昭の子・義尋の妻となり、実相院門跡義尊と円満院門跡常尊をもうけた。胤子の父は古市胤栄と伝えられている。澄胤の兄と同名だが時代がだいぶ違うので、その一門の後裔であろう。この胤栄は、ここで紹介した中でも3人目の 「 胤栄 」 である。
 「 胤栄 」 という名は、「 奈良の古市家 」 の系統での、棟梁的立場での文化人としてのビッグネームであったと思われる。


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T.河内から始まる、古市の系譜
U.伊勢の 『 古市 』。奈良から広がる 『 古市 』 。
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   2.鈴鹿の 『 古市 』
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FURUICHI, Makoto   2001/08/05
原題:談話室第6話 京都新聞が伝えた奈良の豪族『古市氏』1999/01/01 を改作