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古市の虹の書斎  奈良に興る 『 古市 』

Index
T.河内から始まる、古市の系譜
U.伊勢の 『 古市 』。奈良から広がる 『 古市 』 。
   1.伊勢の 『 古市 』
   2.鈴鹿の 『 古市 』
   3.奈良に興る 『 古市 』
   4.九州に転じた茶の湯の 『 古市 』
V.とりあえずのまとめ
V.研究ノート
X .古市 Forum

2.九州に転じた茶の湯の 『 古市 』


(1).九州に花開く古市流茶道
 茶道を能くした本能寺の僧・圓乗坊が還俗して圓乗坊宗圓と名乗り、その養子・古市宗庵から古市流の茶道が出た。
 古市澄胤が圓城坊と号したこと、その孫・紹意が圓乗坊と号したこと、また澄胤の兄・胤榮ほか、一族の多くが仏門に入ったという抹香臭さからみても、ここで還俗した圓乗坊宗圓というのは間違いなく大和の豪族・古市氏の系譜であろう。

 圓乗坊宗圓は千利休の婿となって利休流の茶道に入り、それを継いだ宗庵が利休色の濃い流派・茶道の古市流を開いた。

 古市宗庵は細川侯に仕えたために細川家の移封とともに小倉−熊本と移った。茶道の古市流が熊本を中心とするのはこのような理由による。熊本では宗庵の弟子がまた支流を開き、それらを合わせて肥後古流と呼ばれる。利休の風を色濃く伝えるものであろうと想像される。古市流は熊本を中心に、やがて広く九州一円に広まって現在に至っている。

(2).『 本覚坊遺文 』 の着想
 ところで千利休が秀吉から死を賜ってのち、利休の 『 侘び 』 をさらに徹底させたのが孫の千宗旦だ。彼の流派は 『 宗旦流 』 という。彼は利休が死を賜ったときには14歳であった。周囲から 「 利休の茶はこのようなものであった 」 との指導は常々受けていただろうが、やはり一流を成すためには、かつての利休の直弟子を訪ね歩いて教えを請い、疑念を解くアドバイスを得る必要があったものと思われる。
 この辺のところは井上靖のフィクション・『 本覚坊遺文 』 にも登場する。宗旦はかつて利休に仕えた本覚坊を訪ねて利休在世のころのことを質問する。
 次は実話だが、あるとき肥後の古市宗庵は京に出て、千宗旦に請われて利休相伝の 「 極眞入盆点 」 の法を示したという。これは利休がわが子たちにも伝えなかった秘伝のものだった。
 井上氏の着想も、こういうところから出ているのかも知れない。宗旦の3人の子供たちと高弟らは裏千家、表千家のほか、いくつかの千家の流派を開いて世に広まった。

 かつて古市澄胤は、村田珠光の一の弟子としてその侘び茶を世に広め、やがてその珠光から受けた 「 心の文 」 によって珠光の精神を千利休に引き継がせるにひと役買ったが、それから100年以上の時を隔てた後、今度は古市宗庵が後世の千家流の茶に、生きた利休の風を相伝させる場面で重要な役割を果たしたことになる。

 「 桑田忠親氏による茶人の系図 」 は、鈴木宗保・鈴木宗幹 共著 「 裏千家の茶の湯 」 主婦の友社 1971 に掲載されているものを簡略化し、さらに 『 古市 』 に関係する人物と、私の愛読書 『 本覚坊遺文 』 に登場する重要人物をマーキングしたものだ。この図は 師−弟 の関係を表したもので、血統とは基本的に無関係になっている。たとえば足利義政は、はじめに珠光を師とし、ついで珠光の弟子・能阿弥を師としたので2ヶ所に出て来る。千利休は能阿弥系の北向道陳と堺流の武野紹鴎の二人を師としたようだ。細川幽斎 ( 藤孝 ) は細川三斎 ( 忠興 ) の父だが、それぞれ師事した人が違うので、系図線はつながっていない。利休に死を命じた豊臣秀吉は、利休の弟子であったわけだ。


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FURUICHI, Makoto   2001/08/05