日本書紀からの『ふるいち』研究ノート
3.市の管理人説

 神功皇后・応神天皇の時代から百済が来朝する記事が出てくる。これ以降、百済から帰化する人は急速に増えていく。神功皇后の『新羅征伐』で日本の武力を見せつけられた百済・高麗が朝貢するようになった、というストーリーである。日本の天皇は『文書に強い人を来させよ』などと注文を出したりする。
 帰化人は来朝してしばらくは半島にあったころの名乗りで書記にも登場するが、やがてわが国振りの姓名となっていく。中国・秦の帝室の末裔と名乗った秦氏は、わが国での機織りの職能から『秦造=はたのみやつこ』の呼び名となる。
 古代の河内の国には、半島渡来でいろいろなものの管理を任されたと思われる文化人一族があるが、『津の首(つのおびと)』『船の首(ふねのおびと)』など、与えられた職能をもって姓名とされた例が多い。そのほかにも『秦』氏は「シン」ではなく「はた」、『漢』氏は「カン」や「ハン」ではなく「あや」(『東漢直』で「まとのあやのあたい」)である。

 これらの例から考えると、『河内の古市の市の管理を委ねられた百済からの帰化人』が『古市村主(ふるちのすぐり)』の名乗りを与えられたと考えるのが自然なことと思われる。こう考えるといかにも「古市(=地名)の市(いち→「村」)の主(ぬし)」であったと思えてくる。

 この河内の『市』の管理をゆだねられた帰化人の一団は、計数に明るくて商才に富み、またトラブルなどに対する調整能力・解決能力に優れるとともに、高いモラルをもって商取引のほか会合・歌垣など人と人とのふれあいを円滑に進ませるべく努めたのだろう。また、「市の神」を祭る司祭者的能力もあったかも知れない。やがて年月がたち、この河内の『市』が『古くから続く市』の意味で『古市』と呼ばれるようになったとき、この市で実力を蓄えた彼らは、抵抗なく『古市のすぐり』と呼ばれるようになったのだろうと想像する。(終わり)


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